長編スパイ・サスペンス
あらすじ
元内閣情報調査室の凄腕エージェント・黒崎竜一、四十二歳。今は祇園の路地裏でバー「影」を営み、表舞台から身を引いたはずだった。
ある深夜、旧友・村上からの緊急連絡が届く。「至急会いたい。命に関わる」──だが、約束の場所に現れたのは村上ではなく、銃を構えた男たちだった。村上は口封じのために消されたのだ。
村上が追っていたのは、中国軍部の極秘計画「プロジェクト・ドラゴン」。完成すれば世界中の核ミサイルの発射コードを解読できる、究極のサイバー兵器だった。その開発者・林志明が良心の呵責から祖国を裏切り、全データを持って京都に潜伏しているという。
そして林志明の妹・美華は、十五年前、黒崎が北京で愛し、そして何も告げずに去った女だった。
中国の暗殺部隊「影龍」が京都に放たれる。宿敵・王建国との因縁の対決。守るべき者のために、黒崎は再び影の世界へと足を踏み入れる──。
祇園、鴨川、嵐山。千年の古都を舞台に繰り広げられる、ハードボイルド・スパイアクション。
登場人物
黒崎竜一(くろさき りゅういち)
四十二歳。元内閣情報調査室のエージェント。現在は祇園でバー「影」を経営。身長百八十センチ、痩せぎすの長身に鷹のような鋭い眼。口元には常に皮肉めいた笑みを浮かべる。
林美華(リン・メイファ)
三十代後半。林志明の妹。祇園白川で中国茶の店「茶韻」を営む。十五年前、北京で黒崎と恋に落ちた過去を持つ。
林志明(リン・ジーミン)
五十代。天才的な量子物理学者。「プロジェクト・ドラゴン」の主任研究者だったが、計画の真の目的を知り亡命を決意。
沢村真紀(さわむら まき)
三十代後半。内閣情報調査室の分析官。「氷の女王」と呼ばれる切れ者。黒崎のかつてのチームメイト。
王建国(ワン・ジエングオ)
中国国家安全部のエリート工作員。黒崎の宿敵。冷酷で執念深い男。
神田誠司(かんだ せいじ)
四十代。元自衛隊特殊作戦群。戦闘のエキスパート。
桐島悠(きりしま ゆう)
二十代後半。元ハッカー、現内調技術班。あらゆるシステムに侵入できる天才。
序章 深夜の鴨川
二〇二四年、十一月。
京都の夜は、千年の闇を纏って静かに更けていく。
三条大橋のたもと、鴨川の水面に街灯の光が揺れている。川床のシーズンはとうに終わり、納涼床の骨組みだけが川沿いに並んでいた。深夜二時を回った先斗町は人影もまばらで、花街の華やかさは完全に眠りについていた。
黒いトレンチコートの男が、橋の欄干にもたれて煙草を吸っていた。
黒崎竜一、四十二歳。
かつては内閣情報調査室の切り札と呼ばれた男だ。今は表向き、祇園で小さなバーを営んでいる。だが、その筋の人間は知っている。彼が今も「影の仕事」を続けていることを。
身長百八十センチ、痩せぎすの長身。彫りの深い顔に、鷹のような鋭い眼。無精髭を生やした顎のラインは硬く、口元には常に皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
煙草の煙を吐き出しながら、黒崎は腕時計を見た。約束の時間から、すでに十五分が過ぎている。
「遅いな……」
独り言のように呟いた。
接触してきたのは、かつての同僚、村上だった。内調を辞めて以来、七年ぶりの連絡。それだけで、ただごとではないと分かった。
『至急会いたい。命に関わる』
短いメッセージには、それだけが書かれていた。
黒崎は三本目の煙草に火をつけた。その時、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、スーツ姿の男が立っていた。村上ではない。見知らぬ顔だ。三十代後半、角刈りの頭に、格闘技で鍛えた体格。右手はコートのポケットに入ったまま、何かを握っている。
「黒崎竜一さんですね」
男は確認するように言った。声に抑揚がない。プロの口調だ。
「誰だ」
「村上さんの代わりに参りました」
黒崎の背筋に、冷たいものが走った。
「村上はどうした」
「残念ながら、彼は……口が軽すぎました」
男の右手が動いた。ポケットからサプレッサー付きの拳銃が現れる。
だが、黒崎の方が速かった。
煙草を持った左手を振り、火のついた先端を男の目に向けて弾く。一瞬の怯みを突いて、黒崎は橋の欄干を蹴って川の方へ飛んだ。
銃声は聞こえなかった。サプレッサーの効果だ。だが、頬を熱いものが掠めた。弾丸が皮膚を裂いたのだ。
黒崎は鴨川に落下した。十一月の水は刺すように冷たい。だが、彼は構わず潜水して川底を這うように泳いだ。
三十メートルほど下流で浮上し、対岸の暗がりに身を潜めた。
橋の上を見ると、さきほどの男ともう一人、合計二人の影が走り去っていく。追跡を諦めたのだ。
黒崎は濡れた髪を掻き上げ、低く呟いた。
「村上……何を掴んだ」
古都の夜は、血の匂いを纏い始めていた。
第一章 祇園の影
* * *
翌日の午後。
黒崎のバー「影」は、祇園の路地裏にひっそりと佇んでいる。
花見小路から一本入った細い通り、古い町家を改装した小さな店だ。看板も出していない。知る人ぞ知る、という類の店である。
カウンター八席のみ。壁には古い映画のポスターが貼られ、棚にはウイスキーのボトルが並んでいる。午後の光が格子窓から差し込み、埃が舞っていた。
黒崎は頬の傷に絆創膏を貼り、カウンターの中でグラスを磨いていた。
入口の引き戸が開いた。
「営業は夜からだ」
顔も上げずに言った。
「七年ぶりに会いに来た古い友人に、それはないんじゃないか」
聞き覚えのある声。黒崎は目を上げた。
入口に立っていたのは、小柄な女だった。三十代後半、ショートカットの黒髪に、切れ長の目。グレーのパンツスーツを着こなし、左手に紙袋を提げている。
「……沢村」
「久しぶりね、黒崎」
沢村真紀。かつて黒崎とチームを組んでいた女だ。元公安調査庁、現在は内閣情報調査室の分析官。切れ者で知られ、「氷の女王」と呼ばれている。
「アポなしで来る奴は、ろくな用事じゃない」
「村上のことは聞いた?」
黒崎の手が一瞬止まった。
「……ああ。昨夜、俺に会いに来る途中だったらしい」
「らしい、じゃないでしょう。あなた、狙われたんでしょう」
沢村は黒崎の頬の傷を指さした。
「髭剃りで切った」
「嘘が下手ね、相変わらず」
沢村は勝手にカウンターの椅子に座り、紙袋からファイルを取り出した。
「村上が何を追っていたか、知りたい?」
黒崎はグラスを置き、沢村の目を見た。
「……聞かせろ」
* * *
沢村が広げた資料には、数枚の写真と文書が含まれていた。
「これは、三ヶ月前に北京で撮影された衛星写真よ」
写真には、巨大な施設が映っていた。郊外の山間部、フェンスで囲まれた敷地に、いくつもの建物が並んでいる。
「見ての通り、研究施設ね。表向きは国営の製薬会社。でも、本当の目的は別にある」
「生物兵器か」
「違う。もっと厄介なもの」
沢村は次の写真を示した。
「『プロジェクト・ドラゴン』。中国軍部の極秘計画よ。次世代の戦略兵器……量子コンピューターを核としたサイバー攻撃システム。完成すれば、世界中のあらゆるシステムに侵入できる。金融、軍事、インフラ、すべてが掌中に収まる」
黒崎は煙草に火をつけた。
「で、それと村上の死がどう繋がる」
「村上は、このプロジェクトの中心人物が京都に潜伏していることを突き止めた。そして、その人物に接触しようとしていた」
「中心人物?」
「林志明。プロジェクト・ドラゴンの主任研究者よ。天才的な量子物理学者で、中国科学院のトップエリート。三ヶ月前、突然姿を消した。亡命希望らしいわ」
「亡命……」
「彼は、プロジェクト・ドラゴンの全データを持ち出している。設計図、ソースコード、すべて。これを手に入れれば、中国の野望を阻止できる。逆に、中国側は何としても彼を連れ戻したい」
黒崎は煙を吐き出した。
「それで、村上は消された」
「そう。彼は林志明の居場所を特定する寸前だった。そして、あなたに協力を求めようとしていた」
「なぜ俺に」
「あなた、十五年前に北京で活動していたでしょう。中国語は堪能、土地勘もある。それに……」
沢村は言葉を切った。
「何だ」
「林志明の妹、林美華。彼女、あなたの昔の恋人でしょう」
黒崎の表情が、わずかに動いた。
* * *
林美華。
その名前を聞くのは、十五年ぶりだった。
北京で諜報活動をしていた頃、黒崎は彼女と出会った。北京大学で日本文学を教える若い教授。知的で、芯が強く、笑うと目が三日月のようになる女だった。
二人は恋に落ちた。だが、それは許されない恋だった。
黒崎のカバーが破られかけた時、彼は日本への帰国を余儀なくされた。美華を置いて。彼女には何も言えなかった。突然、消えるように去った。
それ以来、彼女のことは調べていない。調べる勇気がなかった。
「美華が……京都にいるのか」
「兄と一緒にね。林志明の亡命を手助けしているのは、彼女よ。今は祇園で、中国茶の店を営んでいるわ。表向きはね」
黒崎は煙草を灰皿でもみ消した。
「……何が目的だ、沢村」
「林志明を保護してほしい。そして、プロジェクト・ドラゴンのデータを回収してほしい。これは内閣官房からの正式な依頼よ」
「俺はもう、その世界から足を洗った」
「本当に?」
沢村は真っ直ぐに黒崎を見た。
「村上を殺した連中を、このまま野放しにできる? 林志明が捕まれば、世界のパワーバランスが崩れる。中国は、アメリカすら凌ぐサイバー攻撃能力を手に入れる。日本は……言うまでもないわね」
黒崎は黙って窓の外を見た。格子越しに、祇園の石畳が見える。
「それに」
沢村が続けた。
「美華さん、中国の工作員に狙われているわ。このままじゃ、彼女も消される」
黒崎の拳が、カウンターの上で握りしめられた。
第二章 再会
* * *
「茶韻」という店は、祇園白川のほとりにあった。
白川の流れに沿って、柳が揺れている。石橋を渡り、古い町家の暖簾をくぐると、お茶の香りが漂ってきた。
店内は落ち着いた和の空間だった。壁には水墨画が掛けられ、棚には茶器が並んでいる。客は黒崎一人だけだった。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきた女性を見て、黒崎は息を呑んだ。
十五年という歳月は、林美華をより美しくしていた。ロングヘアをひとつに束ね、シンプルな黒いワンピースを着ている。顔立ちは昔のまま、だが目元には成熟した落ち着きが加わっていた。
美華は黒崎を見て、一瞬立ち止まった。そして、静かに微笑んだ。
「……竜一」
「久しぶりだな、美華」
二人は向かい合って座った。美華が烏龍茶を淹れ始める。茶葉を温め、湯を注ぎ、小さな茶杯に注ぐ。その所作は優雅で、無駄がなかった。
「なぜ、ここが分かったの」
「俺の仕事だからな」
「まだ、あの仕事を……」
「足は洗ったつもりだったが、そうも言ってられなくなった」
黒崎は茶杯を手に取った。澄んだ琥珀色の液体から、花のような香りが立ち昇る。
「志明のことか」
「ああ」
美華はしばらく黙っていた。そして、低い声で言った。
「兄は……本当のことを知ってしまったの。プロジェクト・ドラゴンの真の目的を」
「真の目的?」
「あのシステムは、単なるサイバー攻撃ツールじゃない。完成すれば、世界中の核ミサイルの発射コードを解読できる。つまり……核戦争を引き起こすことも、阻止することもできる。そんな力を、一国が独占しようとしている」
黒崎の目が細くなった。
「それで、志明は逃げた」
「兄は科学者よ。軍事利用のために研究してきたわけじゃない。自分の研究が、人類を滅ぼす道具になると分かって……」
美華の声が震えた。
「彼は、全てのデータを持ち出した。そしてアメリカにも日本にも渡さず、国際機関に提出するつもりでいる。どの国にも独占させない、と」
「理想主義的な考えだな」
「そうかもしれない。でも、兄はそういう人なの」
黒崎はテーブルに手を置いた。
「中国は、志明を連れ戻そうとしている。昨夜、俺を殺そうとした連中もその一味だ。このままじゃ、お前も危ない」
「分かってる」
「志明は今、どこに?」
美華は首を振った。
「言えない」
「俺を信用できないか」
「……十五年前、あなたは突然消えた。何の説明もなく」
その言葉は、静かだが鋭い棘を含んでいた。
黒崎は目を伏せた。
「……済まなかった」
「謝ってほしいんじゃないの。ただ……また同じことが起きるんじゃないかって」
「今度は違う」
黒崎は真っ直ぐに美華を見た。
「俺は、お前と志明を守る。何があってもだ」
* * *
その時、店の外で車のブレーキ音がした。
黒崎は反射的に身構えた。窓から覗くと、黒いSUVが二台、店の前に停まっている。
「来たな」
「え?」
「裏口はあるか」
「ある、けど……」
「行け」
黒崎は美華の手を引き、店の奥へ向かった。
表のドアが蹴破られる音がした。
「三人だ。裏に回れ」
男の声が中国語で響く。黒崎は聞き取った。プロの傭兵だ。動きが速い。
裏口を開けると、路地に出た。だが、すでに一人の男が待ち構えていた。
男が拳銃を構える前に、黒崎は動いた。
一歩踏み込み、男の手首を掴んで捻り上げる。銃が落ちる。同時に肘を顎に叩き込み、崩れ落ちる体を壁に押しつけて意識を奪った。
わずか三秒。
「走れ」
美華の手を取り、路地を駆け抜けた。
背後で怒声が上がる。追手は二人。距離は二十メートル。
白川沿いの道を走り、巽橋を渡る。観光客の間を縫うように進み、花見小路へ出た。
「こっちだ」
黒崎は見知った路地に入った。祇園の裏道は、彼の庭のようなものだ。
古い町家の間を抜け、建仁寺の境内へ。庭園を横切り、東大路通りに出る。
タクシーを拾い、二人は後部座席に滑り込んだ。
「四条烏丸まで」
息を切らしながら、黒崎は窓の外を確認した。追手の姿は見えない。
美華が呟いた。
「……やっぱり、あなたは変わってないわね」
「何がだ」
「危険なことに首を突っ込む癖」
黒崎は苦笑した。
「それが俺の仕事だ」
第三章 協力者たち
* * *
四条烏丸の雑居ビル、五階。
「サイバーセキュリティ研究所」という看板の奥に、沢村のセーフハウスがあった。
広いワンフロアに、複数のモニターとサーバーが並んでいる。壁には世界地図と、各地の時計が掛けられていた。
沢村が出迎えた。
「思ったより早かったわね」
「客が来たんでな」
「知ってる。監視カメラで確認した。中国の国家安全部の実行部隊よ。コードネームは『影龍』。暗殺と拉致を専門にしてる」
美華が椅子に座り、水を受け取った。
「あなたが沢村さん? 村上さんから聞いてます」
「ええ。そして、あなたが林美華さんね。お兄さんの居場所を教えてもらえる?」
美華は黒崎を見た。黒崎が小さく頷く。
「……嵐山。渡月橋の近くに、古い旅館があります。そこに兄が隠れています」
沢村がキーボードを叩き、地図を表示した。
「旅館『嵯峨野』ね。確かに、目立たない場所だわ」
「でも、もう危険かもしれない」
美華が言った。
「私の店が襲われたってことは、私の行動が監視されていた。兄の居場所も、もう掴まれているかも」
「急がないとな」
黒崎が言った。
その時、ドアが開いた。
入ってきたのは、二人の男だった。
一人は二十代後半、長身で痩せた若者。パーカーにジーンズ、眼鏡をかけている。首からはヘッドフォンが下がっている。
もう一人は四十代、がっしりとした体格の男。坊主頭に、人懐っこい笑顔。だが、その目は油断のない光を宿している。
「紹介するわ」
沢村が言った。
「若い方が桐島悠。元ハッカー、今は内調の技術班。あらゆるシステムに侵入できる天才よ」
桐島が軽く手を上げた。
「どうも。まあ、天才っていうか、好奇心が強いだけっすけど」
「もう一人は神田誠司。元自衛隊特殊作戦群、現在はフリーランス。戦闘のエキスパート」
神田が深く一礼した。
「黒崎さん、お噂はかねがね。一緒に仕事ができて光栄です」
「こっちこそ」
黒崎は二人と握手を交わした。
「これで、チームは揃ったわね」
沢村が言った。
「作戦を立てましょう」
* * *
モニターに、嵐山周辺の地図が映し出された。
沢村が説明を始めた。
「目標は二つ。一つ目は林志明の保護。二つ目はプロジェクト・ドラゴンのデータの確保。どちらも失敗は許されない」
桐島がキーボードを叩き、衛星画像を表示した。
「旅館『嵯峨野』の周辺をスキャンしました。現時点で、不審な車両が三台確認されてます。おそらく影龍の監視チームっす」
「やはり、もう嗅ぎつけられてるな」
黒崎が言った。
神田が地図を指さした。
「正面からのアプローチは無理ですね。嵐山公園側から山を越えて、裏手から侵入するのがベストでしょう」
「夜間の移動になるわね」
沢村が言った。
「今夜、決行しましょう。明日になれば、敵の包囲は完成する」
黒崎は腕を組んだ。
「配置はどうする」
「私がここで指揮を執る。桐島は通信とハッキングのサポート。神田と黒崎が現場に向かう。美華さんは……」
「私も行く」
美華が言った。
「危険だ」
「兄は、私以外の人間を信用しない。私がいなければ、彼は動かないわ」
黒崎は美華を見た。その目には、決意の光が宿っていた。
「……分かった」
* * *
作戦会議の後、黒崎は屋上に出た。
京都の夕暮れが、街を茜色に染めている。東山の稜線が、空に黒いシルエットを描いていた。
煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
背後で扉が開き、美華が出てきた。
「……まだ、吸ってるのね」
「やめられないんだ」
美華は黒崎の隣に立ち、同じ方向を眺めた。
「十五年前のこと、聞いてもいい?」
「何を」
「なぜ、急にいなくなったの」
黒崎は煙を吐き出した。
「……カバーが破られかけた。このまま北京にいれば、俺だけじゃなく、お前にも危険が及ぶところだった」
「私を守るために?」
「そうだ」
「……馬鹿ね」
美華の声が震えた。
「一言でも説明があれば、私は……」
「連絡すれば、お前を危険に晒すことになった。俺の周りにいた人間は、何人も命を落としてる。お前には、そうなってほしくなかった」
美華は黙って黒崎を見つめた。
「……ずっと、恨んでた」
「知ってる」
「でも」
美華の手が、黒崎の腕に触れた。
「今は、会えてよかったと思ってる」
黒崎は美華の顔を見た。夕日に照らされた彼女の横顔は、十五年前と同じように美しかった。
「……今夜の作戦が終わったら、話したいことがある」
「何?」
「それは、生きて戻ってきてからだ」
黒崎は煙草をもみ消し、ビルの中に戻った。
第四章 嵐山の夜
* * *
午後十一時、嵐山。
渡月橋は、闇に沈んでいた。観光客の姿はなく、桂川の水音だけが静かに響いている。月明かりが、嵐山の稜線を銀色に縁取っていた。
黒崎、神田、美華の三人は、嵐山公園の駐車場に車を停めた。
黒崎はイヤホンを耳に入れた。
「沢村、聞こえるか」
『クリア。現在、敵は旅館の周囲に五人を確認。正面に二人、裏手に三人。定時連絡は三十分おき』
「了解」
神田が暗視ゴーグルを装着した。
「山道のルートは確認済みです。約二十分で旅館の裏手に出られます」
「行くぞ」
三人は竹林の道に入った。
昼間は観光客で賑わう竹林の小径も、深夜は別世界だった。月光が竹の葉を通して降り注ぎ、幻想的な影を作り出している。だが、三人にとっては、それは単なる遮蔽物でしかなかった。
神田が先頭を歩き、黒崎が殿を務める。美華はその間に挟まれて、息を殺して進んだ。
竹林を抜け、山道に入る。急勾配の獣道を、三人は無言で登っていった。
『黒崎、注意。敵の一人が位置を変えた。裏手の監視が手薄になってる』
桐島の声がイヤホンから流れた。
「罠か?」
『可能性はある。でも、今がチャンスかも』
黒崎は一瞬考え、決断した。
「予定通り進む。神田、先行しろ」
「了解」
神田が闇の中に消えていった。
* * *
旅館「嵯峨野」は、山裾の静かな場所にひっそりと建っていた。
数寄屋造りの古い建物で、庭には灯籠と苔むした石が配されている。二階の一室だけに、かすかな明かりが見えた。
三人は裏庭の塀際に身を潜めた。
『裏手の監視、現在一人。位置は北東角、約三十メートル』
「俺が片付ける」
神田が低く言い、闇に溶け込んだ。
数秒後、かすかな物音。そして静寂。
『クリア。裏口から侵入可能』
黒崎と美華は塀を乗り越え、裏庭に降り立った。
勝手口から建物に入る。古い木造の廊下は、足音を立てやすい。黒崎は壁際を歩き、音を最小限に抑えた。
二階への階段を上がる。明かりの漏れる部屋の前に立った。
美華が襖を開けた。
「志明兄さん……」
部屋の中に、男が座っていた。
五十代、銀縁の眼鏡をかけた知的な顔立ち。白髪混じりの髪は乱れ、頬はやつれていた。目の下には深い隈。逃亡生活の疲労が、その姿に刻まれていた。
林志明は、静かに顔を上げた。
「美華……来てくれたのか」
「もう時間がないの。一緒に逃げて」
「この人は……」
志明が黒崎を見た。
「黒崎竜一だ。あんたを助けに来た」
「日本政府の人間か」
「元、だ。今は美華の……知り合いだ」
志明は美華を見た。美華が頷く。
「信用していいわ、兄さん」
志明は立ち上がり、机の上の古いノートパソコンを手に取った。
「データは全てここに入っている。暗号化してあるが……」
その時、窓ガラスが砕けた。
* * *
閃光弾が部屋の中に転がり込んだ。
黒崎は反射的に美華と志明を床に押し倒した。
耳をつんざく爆音と、目を焼く白い光。
「伏せろ!」
目を閉じていた黒崎は、いち早く回復した。窓から黒い影が飛び込んでくる。二人。
黒崎は床を蹴って跳ね起き、最初の男の腕を掴んだ。関節を極め、銃を奪い取る。同時に足払いで二人目を崩し、銃床で頭部を打った。
廊下から足音。さらに二人が駆けてくる。
奪った銃を構え、二発。正確に膝を撃ち抜いた。殺さない。情報が必要だ。
「神田!」
『こっちも交戦中。正面から四人来た。何とか抑えてる』
「裏から脱出する。合流点で落ち合え」
『了解』
黒崎は美華と志明を引き起こした。
「走れ」
三人は廊下を駆け抜け、階段を降りた。裏口から庭に出る。
だが、そこに男が立ちはだかっていた。
長身、黒いコート。鋭い目つき。
「久しぶりだな、黒崎」
流暢な日本語だった。
黒崎の目が細くなった。
「……王」
王建国。かつて北京で何度も対峙した、中国国家安全部のエリート工作員。冷酷で有能、そして執念深い男だ。
「十五年ぶりか。まさか、また会うとは思わなかった」
王は薄く笑った。
「林博士を返してもらおう。彼は祖国に帰るべきだ」
「祖国? 彼を利用して世界を支配しようとしてるくせに、よく言う」
「それは政治家が決めること。私はただ、任務を遂行するだけだ」
王の手が動いた。
黒崎は銃を構えたが、王の方が速かった。足元の小石を蹴り上げ、黒崎の顔を狙う。黒崎が避けた一瞬の隙を突いて、王は距離を詰めた。
格闘戦。
王の拳が顎を掠め、黒崎の蹴りが脇腹を捉える。互いに一歩も引かない、死闘だった。
だが、黒崎には守るべきものがあった。
一瞬の隙を作り、美華に叫んだ。
「行け! 志明を連れて先に!」
美華が兄の手を引き、闇の中に走り去る。
王はそれを追おうとしたが、黒崎が立ちはだかった。
「相手は俺だ」
王の目が冷たく光った。
「……いいだろう。決着をつけよう」
第五章 決戦
* * *
月光の下、二人の男が対峙していた。
黒崎と王。十五年の時を経て、再び相まみえた宿敵同士。
「お前は変わらないな、黒崎。いつも、守るべきもののために戦う」
「お前こそ。いつも、命令のために動く」
「それが、プロというものだ」
王が踏み込んだ。
流れるような動き。八極拳の技が繰り出される。
黒崎は後退しながら捌いた。だが、王の攻撃は容赦なく続く。肩、脇腹、太腿に打撃が入る。
「十五年、お前を追い続けた」
王が言った。
「北京での屈辱を、忘れたことはない」
「そうか。俺は、お前のことなど考えたこともなかったがな」
挑発に、王の目が怒りで燃えた。
攻撃が荒くなる。黒崎はそれを待っていた。
王の拳が顔面を狙った瞬間、黒崎は身を沈めた。同時に、右足を払い、王のバランスを崩す。
倒れ込む王の首に、黒崎の腕が巻きついた。絞め技。
「ぐっ……」
王はもがいたが、黒崎の締め上げは容赦なかった。
「終わりだ、王」
だが、その時、背後から声がした。
「動くな」
振り返ると、新たな男が立っていた。美華と志明を人質に取り、銃を突きつけている。
「林博士を離せ。さもなければ、女を殺す」
黒崎の動きが止まった。
王が絞め技から逃れ、立ち上がった。
「よくやった。さすがだな」
王は喉を押さえながら、冷笑した。
「黒崎、お前の負けだ。大人しく引き下がれ。そうすれば、女は殺さない」
美華が叫んだ。
「竜一、私のことは気にしないで! 兄さんを──」
銃口が、美華のこめかみに押し当てられた。
「黙れ」
黒崎は歯を食いしばった。
そして、両手を上げた。
「……分かった。俺の負けだ」
* * *
その瞬間、銃声が響いた。
だが、倒れたのは黒崎ではなかった。
美華を人質に取っていた男が、膝から崩れ落ちた。
神田だった。暗闇の中から、正確な狙撃を放ったのだ。
「今だ!」
黒崎は反射的に動いた。
王に向かって突進し、体当たりをかます。王は反応したが、一瞬遅かった。
二人は地面を転がり、もつれ合った。
黒崎の拳が、王の顎を捉えた。渾身の一撃。
王の意識が飛んだ。
立ち上がり、息を整える。
神田が駆け寄ってきた。
「すみません、遅くなりました」
「いい腕だ。助かった」
美華が黒崎に抱きついた。
「竜一……」
「大丈夫か」
「ええ……」
志明がノートパソコンを抱えたまま、安堵の表情を浮かべていた。
「これで……終わったのか」
「いや」
黒崎は首を振った。
「まだだ。あんたを安全な場所に送り届けるまでは」
* * *
『全員の無事を確認。脱出ルートを確保した。急いで』
桐島の声がイヤホンから流れた。
四人は山道を駆け下りた。背後から追手の気配はない。
嵐山公園の駐車場に着くと、沢村が車で待っていた。
「乗って。空港まで送る」
車が発進し、京都の街を抜けていく。
沢村が言った。
「林博士、あなたの希望通り、国連の技術委員会への亡命を手配した。ジュネーブに向かう」
志明は深く頷いた。
「……ありがとう。このデータは、どの国にも独占させてはいけない。人類全体で管理すべきものだ」
「理想主義的だと言われるかもしれませんけどね」
沢村が苦笑した。
「構わない。科学者として、これだけは譲れない」
美華が兄の手を握った。
「兄さん、私も一緒に行く」
「いや」
志明は首を振った。
「美華、お前はここに残れ」
「でも──」
「お前には、待っている人がいるだろう」
志明は黒崎を見た。黒崎は窓の外を見つめたまま、何も言わなかった。
美華の目に、涙が浮かんだ。
第六章 新たな夜明け
* * *
三日後、京都。
林志明は無事にジュネーブに到着し、国連の保護下に入った。プロジェクト・ドラゴンのデータは国際技術管理委員会に提出され、どの国も単独で利用できないよう、厳重な管理体制が敷かれることになった。
中国政府は公式に関与を否定したが、日本国内で活動していた工作員数名が拘束された。王建国は国外退去処分となり、二度と日本の土を踏むことはないだろう。
村上の死は、公式には「事故死」として処理された。だが、黒崎は知っていた。彼の死が、世界を救うきっかけになったことを。
* * *
祇園のバー「影」。
黒崎はカウンターの中で、いつものようにグラスを磨いていた。
引き戸が開き、美華が入ってきた。
「まだ、営業前?」
「お前は特別だ」
黒崎はグラスを置き、ウイスキーを二つ注いだ。
「志明から連絡があった」
「ああ」
「元気そうだった。忙しいけど、やりがいがあるって」
「そうか」
二人はグラスを合わせた。
琥珀色の液体が、喉を熱くした。
「……竜一」
「何だ」
「あの夜、話したいことがあるって言ってたでしょう」
黒崎は煙草に火をつけ、煙を吐き出した。
「……十五年前、俺はお前を置いて逃げた。お前を危険から守るためだと言い聞かせていたが、本当は……怖かったんだ」
「怖い?」
「お前を巻き込むことが。お前を失うことが。だから、先に自分から離れた」
美華は黙って聞いていた。
「でも、今回のことで分かった。逃げても、何も解決しない。守りたいものがあるなら、そばにいて戦うべきなんだ」
黒崎は美華の目を真っ直ぐに見た。
「美華、俺はもう逃げない。お前のそばにいたい」
美華の目に、涙が光った。
「……遅すぎるわ」
「ああ。十五年、遅すぎた」
「でも」
美華は黒崎の手を取った。
「遅すぎても、始められないわけじゃないでしょう」
黒崎は、久しぶりに笑った。
本当の、心からの笑みだった。
* * *
夜が更け、バーの灯りが消えた。
祇園の路地を、二人の影が並んで歩いていく。
石畳に、月光が降り注いでいた。
古都・京都。
千年の歴史を刻む街は、今夜もまた、新しい物語を紡ぎ始めていた。
影の中で生きてきた男が、ようやく光を見つけた夜。
黒崎竜一の、新たな人生が始まろうとしていた。
終章 影は続く
* * *
一週間後。
黒崎は東山の墓地にいた。
村上の墓前に、花を手向けた。
「……済まなかった。間に合わなくて」
墓石は何も答えない。だが、黒崎は続けた。
「お前が追っていたものは、ちゃんと守った。世界は……少しだけ、ましになったと思う」
秋の風が、落ち葉を舞い上げた。
「また来る」
黒崎は踵を返した。
墓地の入り口で、沢村が待っていた。
「話があるの」
「……また、仕事か」
「察しがいいわね」
沢村はファイルを差し出した。
「ロシアの情報機関が動いてる。プロジェクト・ドラゴンのデータを狙っているらしい」
「……終わりはないな」
「そうね。でも、だからこそ、あなたが必要なの」
黒崎は空を見上げた。
秋晴れの青空が、どこまでも広がっていた。
「……美華に、今夜は遅くなると伝えてくれ」
「了解」
沢村が笑った。
二人は車に乗り込み、走り去った。
* * *
京都の街は、今日も変わらない顔を見せている。
観光客が行き交い、芸妓が花街を歩き、寺院の鐘が時を告げる。
だが、その光の下には、常に影がある。
世界の均衡を守るため、名もなき者たちが戦っている。
黒崎竜一は、今日もまた、その影の中に消えていく。
古都の、終わりなき戦いの中へ。
─ 完 ─
あとがき
本作『古都の影』は、京都という千年の都を舞台に、国際諜報戦を描いたスパイ・サスペンスです。
主人公・黒崎竜一は、昭和な時代に活躍されたハードボイルドな俳優をイメージして造形しました。クールでありながら、内に熱いものを秘めた、影のある男。かつての恋人との再会を通じて、彼の人間性が少しずつ浮かび上がっていく様子を描ければと思いました。
京都という舞台は、古い伝統と現代が交錯する、非常に魅力的な空間です。祇園の花街、嵐山の竹林、鴨川の夜景……それぞれの場所が持つ独特の雰囲気が、スパイアクションに深みを加えてくれたのではないかと思います。
物語はここで一区切りとなりますが、終章で示唆されているように、黒崎の戦いに終わりはありません。世界には常に新たな脅威が生まれ、それに立ち向かう者たちがいる。そんな終わりなき戦いの一端を、垣間見ていただけたなら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。