あらすじ
喫茶店で謎の美女・神崎美咲と接触した悠真。彼女は内閣情報調査室——通称「内調」のエージェントだという。
だが、USBメモリを渡した直後、またしても銃を持った男たちが現れる。
「なんで僕ばっかりこんな目に!?」
逃走、カーチェイス、そしてなぜかコンビニバイト——。
軽自動車で追手を振り切り、たどり着いたのはバイト先のファミリーストップ。内調のエリートエージェントが、コンビニの制服を着て接客を始める異常事態。
そして明かされる、本当のデータの隠し場所とは——。
悠真の日常は、さらにおかしな方向へ転がっていく。
一
銃口が向けられた瞬間、悠真の頭に浮かんだのは——意外にも、冷静な計算だった。
(今日のバイト、シフト変更の連絡してないな)
我ながら、どうかしている。
「伏せて!」
神崎の声で我に返った。
次の瞬間、彼女はテーブルをひっくり返していた。分厚い木製のテーブルが盾になる。銃声が響き、木片が飛び散った。
「こっち!」
神崎が悠真の腕を掴み、カウンターの裏へ引きずり込んだ。
「ちょ、ちょっと——」
「喋らない。舌噛みます」
有無を言わさぬ口調だった。
神崎は懐から拳銃を取り出した。構え、発砲。轟音。悲鳴。
(この人も銃持ってるの!? 日本ってそういう国だっけ!?)
「今のうちに裏口へ!」
「裏口ってどこ——」
「厨房の奥! 走って!」
悠真は這うようにして厨房へ向かった。
背後で銃声が続いている。振り返る余裕はない。
厨房は狭かった。大きな冷蔵庫、ガスコンロ、調理台。そして奥に——鉄製のドアがあった。
「開いてくれ……!」
ドアノブを回す。開いた。
路地裏に飛び出す。冬の冷たい空気が肺を刺す。
「止まらないで!」
背後から神崎の声。振り返ると、彼女も飛び出してきたところだった。
「車を用意してあります。ついてきて!」
走る。路地を抜け、大通りに出る。
神崎が指さしたのは、一台の軽自動車だった。
白いダイハツ・ミラ。どこにでもある、ごく普通のコンパクトカー。
「……これ?」
「目立たないでしょう?」
(いや、そういう問題じゃなくて——スパイの車ってもっとこう、黒塗りの高級車とかじゃないの?)
ツッコむ暇もなく、神崎は運転席に乗り込んだ。
「早く!」
悠真は助手席に飛び乗った。
エンジンがかかり、車が発進する。
バックミラーを見ると、喫茶店から黒コートの男たちが飛び出してくるのが見えた。彼らも車に乗り込もうとしている。
「追ってきます!」
「わかってます」
神崎の声は落ち着いていた。
軽自動車は住宅街の細い道を走り抜けていく。信号無視。一方通行逆走。歩行者が慌てて避ける。
「ちょっと! ルール! 交通ルール!」
「緊急事態です」
「緊急事態だからって何でもありかよ!」
「あら、結構冷静にツッコめるんですね」
神崎がちらりと悠真を見た。その口元には、微かな笑みが浮かんでいる。
「感心しました。普通の人なら、今頃パニックで泣き叫んでますよ」
「いや、内心めちゃくちゃパニックなんですけど!?」
悠真は叫んだ。
「ただ、一昨日の夜に一回経験してるから、なんか……慣れてきたというか……」
「二回目で慣れるのは才能です」
「嬉しくない才能だな!」
バックミラーに目をやると、黒いセダンが追いかけてくるのが見えた。明らかにこちらより馬力がある。距離が縮まっている。
「まずいですね」
神崎は呟いた。
「軽自動車では逃げ切れません。振り切る方法を考えないと」
「振り切るって、どうやって——」
「桐生さん。この辺りの地理、詳しいですか?」
「え? まあ、バイト先がこの近くなんで、それなりには……」
「完璧です」
神崎はハンドルを切った。
「ナビをお願いします」
「ナビ?」
「細い道、入り組んだ路地、一方通行の多いエリア——とにかく、大きな車が通りにくい道を教えてください」
なるほど。軽自動車の機動性を活かすわけか。
悠真は必死に頭を働かせた。
「次の角、左!」
「了解」
車が急カーブを切る。タイヤが悲鳴を上げる。
「そのまま直進して、三つ目の路地を右!」
「はい」
「あ、その先行き止まりだ! 手前を左!」
「はいはい」
「『はいはい』じゃなくて『はい』一回! 運転中でしょ!」
「細かいですね」
神崎は笑いながら、言われた通りにハンドルを操作した。
追跡してきた黒いセダンは、狭い路地で何度も切り返しを強いられていた。明らかに距離が開いていく。
「いいですね、桐生さん。素晴らしいナビゲーションです」
「ありがとうございます……って、褒められてる場合じゃない!」
悠真は窓の外を見た。見覚えのある風景。
「あ」
「どうしました?」
「ここ……バイト先のすぐ近くだ」
神崎の目が光った。
「ファミリーストップ中井坂上店?」
「そうです」
「行きましょう」
「え?」
「あそこなら、しばらく身を隠せます」
「いやいやいや! バイト先ですよ!? スパイの隠れ家にするのはまずいでしょ!」
「大丈夫です。私、コンビニバイトの経験あるんですよ」
「そういう問題じゃない!」
悠真の抗議は無視された。
軽自動車は、ファミリーストップ中井坂上店の駐車場に滑り込んだ。
二
店内に入ると、レジには見慣れた顔があった。
「あれ、桐生くん? 今日シフトじゃないよね?」
山田店長。五十代の小太りの男性で、温厚な性格。悠真のことを何かと気にかけてくれる、いい上司だ。
「あ、店長……えーと……」
何と説明すればいいのか。
「友達と近くに来たんで、寄ってみました」
「そうなの。あ、もしよかったら、ちょっと手伝ってくれない? 田中さんが急に休みになっちゃって」
「え、今からですか?」
「うん。夕方まででいいんだけど」
神崎が悠真の腕を小突いた。
「いい機会です」と小声で囁く。「ここにいれば、しばらく安全です」
(いや、でも——)
「引き受けましょう」
神崎は山田店長に向かって、にっこりと微笑んだ。
「私もお手伝いします。実は、コンビニで働いてみたいと思ってたんです」
「おお、そうですか! じゃあお願いしようかな。制服は……桐生くん、予備ある?」
「え、ええ……ありますけど……」
「じゃあ、よろしくね!」
山田店長は呑気に手を振って、バックヤードへ消えていった。
悠真は神崎を見た。
「何考えてるんですか」
「だから、ここに身を隠すんです。追手もまさか、コンビニで普通に働いてるとは思わないでしょう」
「いや、そうかもしれないけど——」
「それに」
神崎は店内を見回した。
「監視カメラがありますね。外の駐車場も映ってる。敵の動きを察知できます」
「コンビニの防犯カメラをそういう用途で使わないでください」
「細かいことを気にしてはいけません」
「細かくない! 全然細かくない!」
悠真のツッコミは、またしても軽くスルーされた。
三
三十分後。
神崎美咲は、ファミリーストップの制服に身を包んでいた。
緑と白のストライプのエプロン。頭には同じ色の三角巾。胸には「神崎」と書かれた名札。
「どうですか?」
神崎は両手を広げて、くるりと回った。
「違和感ありませんか?」
「……ありまくりです」
悠真は頭を抱えた。
何が違和感かというと——全部だ。
立ち姿が美しすぎる。背筋がピンと伸び、どこを見ても隙がない。コンビニ店員というより、高級ブティックの店員。いや、それ以上だ。
「オーラ隠してください」
「オーラ?」
「なんか、『できる人』感がすごいんですよ」
「そうですか? これでも抑えてるんですが」
「抑えてそれ!?」
「普段はもっとこう……殺気が出てしまうので」
「殺気を抑えるレベルの話じゃないんだよなあ……」
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
悠真が反射的に声を出す。
入ってきたのは、中年の男性客だった。スーツ姿で、疲れた顔をしている。
男性客はおにぎりコーナーへ向かい、ツナマヨを二つ手に取った。
「いらっしゃいませー!」
神崎の声が響いた。
声量が大きすぎる。しかも、妙にハキハキしている。新人研修の見本ビデオに出てきそうな、完璧すぎる接客。
男性客がびくりと肩を震わせた。
「えーと……これで」
「ありがとうございます! おにぎり二点で二百七十円になります!」
「は、はい……」
男性客は怯えた顔で千円札を出した。
「千円お預かりします! 七百三十円のお返しです! ありがとうございました! またお越しくださいませ!」
男性客は逃げるように店を出ていった。
「……神崎さん」
「はい?」
「声、でかすぎです」
「そうですか? マニュアル通りにやったつもりですが」
「マニュアルには『自然に』って書いてあるはずです」
「自然、ですか」
神崎は首を傾げた。
「自然とは何でしょう。定義が曖昧です」
「定義とかじゃなくて、もっとこう……普通に……」
悠真は実演してみせた。
「いらっしゃいませー」
力の抜けた、適度にやる気のない声。深夜シフトで鍛えた、省エネ接客。
「こんな感じで」
「なるほど。やる気がない感じですね」
「やる気がないわけじゃないんですけど……まあ、いいです。とにかく、もう少し肩の力を抜いてください」
「了解しました」
神崎は深呼吸をした。
次の客が入ってきた。若い女性で、飲み物を探している様子だった。
「いらっしゃいませー」
神崎の声。さっきよりはマシだが、まだ硬い。
女性客はアイスコーヒーを手に取り、レジへ向かってきた。
「百四十七円になります」
「Suicaで」
「はい、こちらにどうぞ」
ピッ、と電子音。
「ありがとうございましたー」
女性客が出ていく。
悠真は少しほっとした。
「さっきよりは良くなりましたね」
「ありがとうございます。コンビニバイト、奥が深いですね」
「まあ、慣れですよ」
「慣れ、ですか」
神崎は感心したように頷いた。
「スパイの訓練より難しいかもしれません」
「どういう基準だよ」
悠真はツッコんだ。
が、すぐに気づいた。
神崎の目が、窓の外を見ている。
「どうしました?」
「……車が一台、駐車場に入ってきました」
悠真も窓の外を見た。
黒いセダン。見覚えがある。さっき追いかけてきた車だ。
「まずい……」
「落ち着いて」
神崎の声は冷静だった。
「向こうはまだ、私たちがここにいると確信していません。普通にしていれば、気づかれません」
「普通にって——」
「仕事を続けてください。私はバックヤードに隠れます。何かあったら、合図して」
「合図って、どうやって——」
「おでんのつゆを足してください」
「は?」
「おでん鍋のつゆを足す動作をしたら、『敵が近づいている』という意味です」
「いや、わからないけど——」
神崎はさっさとバックヤードへ消えていった。
(おでんで合図って何……)
悠真は一人、レジに残された。
自動ドアが開く。
黒いセダンから降りてきた男が、店内に入ってきた。
「いらっしゃいませー」
心臓がバクバクと音を立てている。
男は店内をゆっくりと見回した。三十代後半くらい。短髪で、顎には無精髭。目つきは鋭い。
雑誌コーナーに向かい、週刊誌を手に取った。ぱらぱらとめくりながら、店内を観察している。
そして——悠真の方へ歩いてきた。
「あの」
「は、はい」
「この辺で、女の人を見ませんでしたか。黒髪で、スーツを着た——綺麗な人なんですが」
「いえ、見てないですね」
悠真は首を横に振った。
嘘をつくのは得意ではない。だが、この状況で正直に答えるわけにはいかない。
「そうですか……」
男は残念そうな顔をした。だが、その目は悠真を値踏みするように見ている。
「あなた、名前は?」
「え?」
男の視線が、悠真の胸元に向けられた。
名札。「桐生」と書いてある。隠しようがない。
「桐生さん、ね」
「……何か?」
「いえ。いい名前だなと思って」
男はにやりと笑った。
(こいつ、絶対知ってる)
悠真の背筋に冷たいものが走った。
「あのー、他に何かご用は——」
「ホットスナックをください。フランクフルト、二本」
「あ、はい……」
悠真はホットスナックのケースを開け、フランクフルトをトングで取り出した。
手が震えている。
(落とすな。落とすな)
なんとか紙に包み、男に渡した。
「二百六十円になります」
「カードで」
男はクレジットカードを差し出した。
悠真はカードを受け取り、端末に通した。
その時——
「あら、いらっしゃい」
声がした。
振り返ると、神崎がバックヤードから出てきたところだった。
制服姿のまま、にこにこと笑っている。
(え——何やってるの、この人!?)
「お客様、フランクフルトですか? 美味しいですよね、私も好きなんです」
神崎は何食わぬ顔で、悠真の隣に立った。
男の目が鋭くなった。
「……あなたは?」
「私? ここのバイトですけど」
神崎は首を傾げた。
「何か?」
数秒間、無言の睨み合いが続いた。
「……いえ、何でも」
男はカードを受け取り、フランクフルトを持って店を出ていった。
自動ドアが閉まる。
悠真は大きく息を吐いた。
「な、何で出てきたんですか! バレたらどうするんですか!」
「バレませんよ。向こうは私の顔を知りません。喫茶店で見たのは後ろ姿だけですから」
「でも——」
「それに、最も怪しまれないのは、堂々としていることなんです。スパイの基本です」
神崎はにっこりと笑った。
「あなたも覚えておくといいですよ」
「いや、覚える必要ないですから。僕は一般人ですから」
「そうですか?」
神崎は意味深な目で悠真を見た。
「私には、あなたがただの一般人には見えませんけど」
「見えますよ! どう見ても一般人ですよ!」
窓の外で、黒いセダンが発進した。
どうやら、立ち去るらしい。
「……行きましたね」
「ええ。でも、また来るでしょう。しばらくは警戒が必要です」
四
夕方。
山田店長は買い出しに出かけ、店内には悠真と神崎だけが残った。
「……神崎さん」
「はい?」
「本当に、このままでいいんですか。USBメモリは渡したんでしょう? 僕はもう——」
「それなんですが」
神崎の表情が、少し曇った。
「実は、問題があるんです」
「問題?」
「喫茶店で渡していただいたUSBメモリ——あれ、ダミーでした」
「は?」
悠真は耳を疑った。
「ダミーって——偽物ってことですか?」
「ええ。中身を確認したら、空っぽでした」
「そんな馬鹿な。藤堂さんが渡してくれたものですよ?」
「藤堂さんは、おそらく保険をかけたんでしょう。本物のデータは別の場所に隠して、ダミーをあなたに渡した」
「じゃあ、本物はどこに——」
「それを探さなければなりません。桐生さん、あの夜、藤堂さんは何か言っていませんでしたか?」
悠真は必死に記憶を辿った。
あの夜。混乱の中で交わした、短い会話。
「……硬貨」
「硬貨?」
「藤堂さんが会計の時に、小銭を落としたんです。僕が拾い集めて……その時、一枚だけ妙に重い一円玉があった気がします」
神崎の顔に、理解の色が浮かんだ。
「マイクロSDカード」
「え?」
「一円玉サイズのマイクロSDカードがあります。特殊な合金でコーティングすれば、見た目も重さも一円玉そっくりに偽装できる」
「そんなスパイ映画みたいな——」
「スパイ映画じゃなくて、スパイの現実です」
神崎は真剣な目で言った。
「藤堂さんは、わざと硬貨を落として、その中に本物のデータを紛れ込ませた。あなたに拾わせることで、自然に渡したんです」
悠真は愕然とした。
「その一円玉——今、どこにありますか?」
「……財布の中、だと思います」
悠真はポケットから財布を取り出した。
小銭入れを開ける。
一円玉が五枚。
神崎が一枚ずつ手に取り、重さを確かめる。
「……これ」
三枚目の一円玉を持ち上げた時、神崎の目が輝いた。
「明らかに重い。これがマイクロSDカードです」
「本当に——」
悠真は手を伸ばした。
その時——
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませー」
反射的に声を出してしまう。
入ってきたのは——
「おお、まだいたか」
山田店長だった。
買い出しから戻ってきたらしい。両手にはスーパーの袋を提げている。
「おでんの具、補充しといてー。大根とちくわが売れてたから」
「は、はい……」
悠真は慌てて一円玉を財布にしまった。
「危なかった……」
「ええ。でも、これで謎が解けました」
神崎は小声で言った。
「本物のデータは、あなたの財布の中にあった。藤堂さんの作戦は、見事に成功していたんです」
悠真は財布を握りしめた。
この中に、国家機密が入っている。
一円玉に偽装された、小さなマイクロSDカード。
「これを——内調に届ければいいんですね」
「ええ。ただ——」
神崎の声が低くなった。
「敵も同じことに気づいている可能性があります。あなたを狙う理由が、まだあるということ」
「じゃあ、僕は——」
「しばらく、私と行動を共にしてもらいます」
神崎はまっすぐに悠真を見た。
「危険なことは承知しています。でも、一人でいるよりは安全です。私があなたを守ります」
守る。
この人が、自分を。
悠真は——何と言えばいいかわからなかった。
「……わかりました」
結局、そう答えるしかなかった。
「でも、一つだけ条件があります」
「何ですか?」
「僕のバイトのシフトは邪魔しないでください。生活かかってるんで」
神崎は一瞬、呆気に取られた顔をした。
そして——
笑った。
声を出して、本当に楽しそうに笑った。
「あはは……あなた、本当に面白い人ですね」
「面白くないです。真剣に言ってるんです」
「わかりました。バイトのシフトは尊重します」
神崎は笑いを収め、真剣な顔になった。
「でも、その代わり——私もここでバイトさせてください」
「……は?」
「あなたを守るには、近くにいるのが一番です。同じ職場なら、自然でしょう?」
「自然じゃないですよ! 内調のエージェントがコンビニでバイトって——」
「内緒ですよ?」
神崎は人差し指を唇に当てた。
悠真は深いため息をついた。
(どうしてこうなった)
だが、反論する気力も残っていなかった。
五
その夜。
シフトを終えた悠真と神崎は、店の裏口から出た。
「今日はどこに泊まるんですか」
悠真が聞くと、神崎は首を傾げた。
「そうですね。ホテルを取ろうと思っていましたが——」
「僕のアパートに来ますか」
自分で言っておいて、悠真は驚いた。
何を言っているんだ、俺は。
「いえ、今のなしで——」
「いいんですか? 助かります。監視対象と同じ場所にいた方が、警護もしやすいですし」
「監視対象って——」
「冗談です」
神崎はくすりと笑った。
「でも、本当に助かります。お言葉に甘えましょう」
悠真は後悔し始めていた。
何で余計なことを言ったんだ。
でも、まあ——彼女が近くにいた方が安全なのは確かだ。
「あ、でも——」
「はい?」
「部屋、めちゃくちゃ狭いですよ。六畳一間で」
「大丈夫です。もっと狭い場所で寝たことありますから」
「もっと狭い……どこですか」
「棺桶サイズの輸送コンテナ」
「……聞かなきゃよかった」
二人は夜の住宅街を歩いていった。
「桐生さん」
「はい?」
「今日は、ありがとうございました」
「僕が? 何を?」
「付き合ってくれて。普通なら、こんな状況、逃げ出しますよ」
悠真は肩をすくめた。
「逃げ出しても、たぶん追いかけてくるでしょ」
「……それは、そうですけど」
「だったら、一緒にいた方がマシかなって」
神崎は小さく笑った。
「前向きですね」
「そうでもしないと、やってられないですよ」
悠真のアパートが見えてきた。
「あれです。阿佐見ハイツ」
「味のある建物ですね」
「ボロいって言ってください」
「言いませんよ。私、こういう雰囲気、嫌いじゃないです」
「本当ですか?」
「ええ。なんだか——落ち着きます」
階段を上り、悠真の部屋に着いた。
「ここです」
「お邪魔します」
鍵を開け、中に入る。
六畳一間。ベッド、机、本棚、ミニ冷蔵庫。それだけの空間。
「ベッド、使ってください。僕は床で寝ますから」
「いえ、私が床で——」
「お客さんに床で寝させるわけにいかないです」
神崎は少し困った顔をしたが、結局「わかりました」と頷いた。
悠真はクローゼットから寝袋を取り出した。
「これで寝ます」
「……桐生さん」
「はい?」
「明日から、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「色々と——巻き込んでしまって、すみません」
「いや、巻き込んだのは藤堂さんですから。神崎さんは悪くないですよ」
悠真は寝袋に入りながら言った。
「それに——」
「それに?」
「なんか、ちょっと……ワクワクしてるかもしれません」
自分で言って、悠真は恥ずかしくなった。
「……変ですよね」
「いいえ。わかります」
神崎の声は、穏やかだった。
「私も、最初はそうでしたから。怖かったけど——どこかで、ワクワクしていた」
「……」
「でも、忘れないでください。これは、命がかかっていることだと」
「わかってます」
「本当に?」
「……たぶん」
神崎は小さく笑った。
「正直ですね」
「嘘つくの、苦手なんです」
「知ってます。だから、信用できる」
電気が消えた。
暗闇の中、悠真は天井を見上げた。
明日から、どうなるんだろう。
スパイと同居。コンビニでのバイト。そして、国家機密を巡る追跡劇。
普通の大学院生には、到底想像もつかない日常。
だけど——
不思議と、眠れそうだった。
隣のベッドから、かすかな寝息が聞こえ始めている。
神崎は、もう眠ったらしい。
(スパイって、寝つき良いんだな……)
悠真も目を閉じた。
明日からの、新しい日々に備えて。
第二話「おでんとカーチェイス」 了
次回、第三話「恵方巻き作戦」に続く