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Easy Runningコンビニエント・スパイ 第二話「おでんとカーチェイス」

あらすじ

喫茶店で謎の美女・神崎美咲と接触した悠真。彼女は内閣情報調査室——通称「内調」のエージェントだという。

だが、USBメモリを渡した直後、またしても銃を持った男たちが現れる。

「なんで僕ばっかりこんな目に!?

逃走、カーチェイス、そしてなぜかコンビニバイト——。

軽自動車で追手を振り切り、たどり着いたのはバイト先のファミリーストップ。内調のエリートエージェントが、コンビニの制服を着て接客を始める異常事態。

そして明かされる、本当のデータの隠し場所とは——。

悠真の日常は、さらにおかしな方向へ転がっていく。


銃口が向けられた瞬間、悠真の頭に浮かんだのは——意外にも、冷静な計算だった。

(今日のバイト、シフト変更の連絡してないな)

我ながら、どうかしている。

「伏せて!」

神崎の声で我に返った。

次の瞬間、彼女はテーブルをひっくり返していた。分厚い木製のテーブルが盾になる。銃声が響き、木片が飛び散った。

「こっち!」

神崎が悠真の腕を掴み、カウンターの裏へ引きずり込んだ。

「ちょ、ちょっと——」

「喋らない。舌噛みます」

有無を言わさぬ口調だった。

神崎は懐から拳銃を取り出した。構え、発砲。轟音。悲鳴。

(この人も銃持ってるの!? 日本ってそういう国だっけ!?

「今のうちに裏口へ!」

「裏口ってどこ——」

「厨房の奥! 走って!」

悠真は這うようにして厨房へ向かった。

背後で銃声が続いている。振り返る余裕はない。

厨房は狭かった。大きな冷蔵庫、ガスコンロ、調理台。そして奥に——鉄製のドアがあった。

「開いてくれ……!」

ドアノブを回す。開いた。

路地裏に飛び出す。冬の冷たい空気が肺を刺す。

「止まらないで!」

背後から神崎の声。振り返ると、彼女も飛び出してきたところだった。

「車を用意してあります。ついてきて!」

走る。路地を抜け、大通りに出る。

神崎が指さしたのは、一台の軽自動車だった。

白いダイハツ・ミラ。どこにでもある、ごく普通のコンパクトカー。

「……これ?」

「目立たないでしょう?」

(いや、そういう問題じゃなくて——スパイの車ってもっとこう、黒塗りの高級車とかじゃないの?)

ツッコむ暇もなく、神崎は運転席に乗り込んだ。

「早く!」

悠真は助手席に飛び乗った。

エンジンがかかり、車が発進する。

バックミラーを見ると、喫茶店から黒コートの男たちが飛び出してくるのが見えた。彼らも車に乗り込もうとしている。

「追ってきます!」

「わかってます」

神崎の声は落ち着いていた。

軽自動車は住宅街の細い道を走り抜けていく。信号無視。一方通行逆走。歩行者が慌てて避ける。

「ちょっと! ルール! 交通ルール!」

「緊急事態です」

「緊急事態だからって何でもありかよ!」

「あら、結構冷静にツッコめるんですね」

神崎がちらりと悠真を見た。その口元には、微かな笑みが浮かんでいる。

「感心しました。普通の人なら、今頃パニックで泣き叫んでますよ」

「いや、内心めちゃくちゃパニックなんですけど!?

悠真は叫んだ。

「ただ、一昨日の夜に一回経験してるから、なんか……慣れてきたというか……」

「二回目で慣れるのは才能です」

「嬉しくない才能だな!」

バックミラーに目をやると、黒いセダンが追いかけてくるのが見えた。明らかにこちらより馬力がある。距離が縮まっている。

「まずいですね」

神崎は呟いた。

「軽自動車では逃げ切れません。振り切る方法を考えないと」

「振り切るって、どうやって——」

「桐生さん。この辺りの地理、詳しいですか?」

「え? まあ、バイト先がこの近くなんで、それなりには……」

「完璧です」

神崎はハンドルを切った。

「ナビをお願いします」

「ナビ?」

「細い道、入り組んだ路地、一方通行の多いエリア——とにかく、大きな車が通りにくい道を教えてください」

なるほど。軽自動車の機動性を活かすわけか。

悠真は必死に頭を働かせた。

「次の角、左!」

「了解」

車が急カーブを切る。タイヤが悲鳴を上げる。

「そのまま直進して、三つ目の路地を右!」

「はい」

「あ、その先行き止まりだ! 手前を左!」

「はいはい」

「『はいはい』じゃなくて『はい』一回! 運転中でしょ!」

「細かいですね」

神崎は笑いながら、言われた通りにハンドルを操作した。

追跡してきた黒いセダンは、狭い路地で何度も切り返しを強いられていた。明らかに距離が開いていく。

「いいですね、桐生さん。素晴らしいナビゲーションです」

「ありがとうございます……って、褒められてる場合じゃない!」

悠真は窓の外を見た。見覚えのある風景。

「あ」

「どうしました?」

「ここ……バイト先のすぐ近くだ」

神崎の目が光った。

「ファミリーストップ中井坂上店?」

「そうです」

「行きましょう」

「え?」

「あそこなら、しばらく身を隠せます」

「いやいやいや! バイト先ですよ!? スパイの隠れ家にするのはまずいでしょ!」

「大丈夫です。私、コンビニバイトの経験あるんですよ」

「そういう問題じゃない!」

悠真の抗議は無視された。

軽自動車は、ファミリーストップ中井坂上店の駐車場に滑り込んだ。

店内に入ると、レジには見慣れた顔があった。

「あれ、桐生くん? 今日シフトじゃないよね?」

山田店長。五十代の小太りの男性で、温厚な性格。悠真のことを何かと気にかけてくれる、いい上司だ。

「あ、店長……えーと……」

何と説明すればいいのか。

「友達と近くに来たんで、寄ってみました」

「そうなの。あ、もしよかったら、ちょっと手伝ってくれない? 田中さんが急に休みになっちゃって」

「え、今からですか?」

「うん。夕方まででいいんだけど」

神崎が悠真の腕を小突いた。

「いい機会です」と小声で囁く。「ここにいれば、しばらく安全です」

(いや、でも——)

「引き受けましょう」

神崎は山田店長に向かって、にっこりと微笑んだ。

「私もお手伝いします。実は、コンビニで働いてみたいと思ってたんです」

「おお、そうですか! じゃあお願いしようかな。制服は……桐生くん、予備ある?」

「え、ええ……ありますけど……」

「じゃあ、よろしくね!」

山田店長は呑気に手を振って、バックヤードへ消えていった。

悠真は神崎を見た。

「何考えてるんですか」

「だから、ここに身を隠すんです。追手もまさか、コンビニで普通に働いてるとは思わないでしょう」

「いや、そうかもしれないけど——」

「それに」

神崎は店内を見回した。

「監視カメラがありますね。外の駐車場も映ってる。敵の動きを察知できます」

「コンビニの防犯カメラをそういう用途で使わないでください」

「細かいことを気にしてはいけません」

「細かくない! 全然細かくない!」

悠真のツッコミは、またしても軽くスルーされた。

三十分後。

神崎美咲は、ファミリーストップの制服に身を包んでいた。

緑と白のストライプのエプロン。頭には同じ色の三角巾。胸には「神崎」と書かれた名札。

「どうですか?」

神崎は両手を広げて、くるりと回った。

「違和感ありませんか?」

「……ありまくりです」

悠真は頭を抱えた。

何が違和感かというと——全部だ。

立ち姿が美しすぎる。背筋がピンと伸び、どこを見ても隙がない。コンビニ店員というより、高級ブティックの店員。いや、それ以上だ。

「オーラ隠してください」

「オーラ?」

「なんか、『できる人』感がすごいんですよ」

「そうですか? これでも抑えてるんですが」

「抑えてそれ!?

「普段はもっとこう……殺気が出てしまうので」

「殺気を抑えるレベルの話じゃないんだよなあ……」

自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

悠真が反射的に声を出す。

入ってきたのは、中年の男性客だった。スーツ姿で、疲れた顔をしている。

男性客はおにぎりコーナーへ向かい、ツナマヨを二つ手に取った。

「いらっしゃいませー!」

神崎の声が響いた。

声量が大きすぎる。しかも、妙にハキハキしている。新人研修の見本ビデオに出てきそうな、完璧すぎる接客。

男性客がびくりと肩を震わせた。

「えーと……これで」

「ありがとうございます! おにぎり二点で二百七十円になります!」

「は、はい……」

男性客は怯えた顔で千円札を出した。

「千円お預かりします! 七百三十円のお返しです! ありがとうございました! またお越しくださいませ!」

男性客は逃げるように店を出ていった。

「……神崎さん」

「はい?」

「声、でかすぎです」

「そうですか? マニュアル通りにやったつもりですが」

「マニュアルには『自然に』って書いてあるはずです」

「自然、ですか」

神崎は首を傾げた。

「自然とは何でしょう。定義が曖昧です」

「定義とかじゃなくて、もっとこう……普通に……」

悠真は実演してみせた。

「いらっしゃいませー」

力の抜けた、適度にやる気のない声。深夜シフトで鍛えた、省エネ接客。

「こんな感じで」

「なるほど。やる気がない感じですね」

「やる気がないわけじゃないんですけど……まあ、いいです。とにかく、もう少し肩の力を抜いてください」

「了解しました」

神崎は深呼吸をした。

次の客が入ってきた。若い女性で、飲み物を探している様子だった。

「いらっしゃいませー」

神崎の声。さっきよりはマシだが、まだ硬い。

女性客はアイスコーヒーを手に取り、レジへ向かってきた。

「百四十七円になります」

「Suicaで」

「はい、こちらにどうぞ」

ピッ、と電子音。

「ありがとうございましたー」

女性客が出ていく。

悠真は少しほっとした。

「さっきよりは良くなりましたね」

「ありがとうございます。コンビニバイト、奥が深いですね」

「まあ、慣れですよ」

「慣れ、ですか」

神崎は感心したように頷いた。

「スパイの訓練より難しいかもしれません」

「どういう基準だよ」

悠真はツッコんだ。

が、すぐに気づいた。

神崎の目が、窓の外を見ている。

「どうしました?」

「……車が一台、駐車場に入ってきました」

悠真も窓の外を見た。

黒いセダン。見覚えがある。さっき追いかけてきた車だ。

「まずい……」

「落ち着いて」

神崎の声は冷静だった。

「向こうはまだ、私たちがここにいると確信していません。普通にしていれば、気づかれません」

「普通にって——」

「仕事を続けてください。私はバックヤードに隠れます。何かあったら、合図して」

「合図って、どうやって——」

「おでんのつゆを足してください」

「は?」

「おでん鍋のつゆを足す動作をしたら、『敵が近づいている』という意味です」

「いや、わからないけど——」

神崎はさっさとバックヤードへ消えていった。

(おでんで合図って何……)

悠真は一人、レジに残された。

自動ドアが開く。

黒いセダンから降りてきた男が、店内に入ってきた。

「いらっしゃいませー」

心臓がバクバクと音を立てている。

男は店内をゆっくりと見回した。三十代後半くらい。短髪で、顎には無精髭。目つきは鋭い。

雑誌コーナーに向かい、週刊誌を手に取った。ぱらぱらとめくりながら、店内を観察している。

そして——悠真の方へ歩いてきた。

「あの」

「は、はい」

「この辺で、女の人を見ませんでしたか。黒髪で、スーツを着た——綺麗な人なんですが」

「いえ、見てないですね」

悠真は首を横に振った。

嘘をつくのは得意ではない。だが、この状況で正直に答えるわけにはいかない。

「そうですか……」

男は残念そうな顔をした。だが、その目は悠真を値踏みするように見ている。

「あなた、名前は?」

「え?」

男の視線が、悠真の胸元に向けられた。

名札。「桐生」と書いてある。隠しようがない。

「桐生さん、ね」

「……何か?」

「いえ。いい名前だなと思って」

男はにやりと笑った。

(こいつ、絶対知ってる)

悠真の背筋に冷たいものが走った。

「あのー、他に何かご用は——」

「ホットスナックをください。フランクフルト、二本」

「あ、はい……」

悠真はホットスナックのケースを開け、フランクフルトをトングで取り出した。

手が震えている。

(落とすな。落とすな)

なんとか紙に包み、男に渡した。

「二百六十円になります」

「カードで」

男はクレジットカードを差し出した。

悠真はカードを受け取り、端末に通した。

その時——

「あら、いらっしゃい」

声がした。

振り返ると、神崎がバックヤードから出てきたところだった。

制服姿のまま、にこにこと笑っている。

(え——何やってるの、この人!?

「お客様、フランクフルトですか? 美味しいですよね、私も好きなんです」

神崎は何食わぬ顔で、悠真の隣に立った。

男の目が鋭くなった。

「……あなたは?」

「私? ここのバイトですけど」

神崎は首を傾げた。

「何か?」

数秒間、無言の睨み合いが続いた。

「……いえ、何でも」

男はカードを受け取り、フランクフルトを持って店を出ていった。

自動ドアが閉まる。

悠真は大きく息を吐いた。

「な、何で出てきたんですか! バレたらどうするんですか!」

「バレませんよ。向こうは私の顔を知りません。喫茶店で見たのは後ろ姿だけですから」

「でも——」

「それに、最も怪しまれないのは、堂々としていることなんです。スパイの基本です」

神崎はにっこりと笑った。

「あなたも覚えておくといいですよ」

「いや、覚える必要ないですから。僕は一般人ですから」

「そうですか?」

神崎は意味深な目で悠真を見た。

「私には、あなたがただの一般人には見えませんけど」

「見えますよ! どう見ても一般人ですよ!」

窓の外で、黒いセダンが発進した。

どうやら、立ち去るらしい。

「……行きましたね」

「ええ。でも、また来るでしょう。しばらくは警戒が必要です」

夕方。

山田店長は買い出しに出かけ、店内には悠真と神崎だけが残った。

「……神崎さん」

「はい?」

「本当に、このままでいいんですか。USBメモリは渡したんでしょう? 僕はもう——」

「それなんですが」

神崎の表情が、少し曇った。

「実は、問題があるんです」

「問題?」

「喫茶店で渡していただいたUSBメモリ——あれ、ダミーでした」

「は?」

悠真は耳を疑った。

「ダミーって——偽物ってことですか?」

「ええ。中身を確認したら、空っぽでした」

「そんな馬鹿な。藤堂さんが渡してくれたものですよ?」

「藤堂さんは、おそらく保険をかけたんでしょう。本物のデータは別の場所に隠して、ダミーをあなたに渡した」

「じゃあ、本物はどこに——」

「それを探さなければなりません。桐生さん、あの夜、藤堂さんは何か言っていませんでしたか?」

悠真は必死に記憶を辿った。

あの夜。混乱の中で交わした、短い会話。

「……硬貨」

「硬貨?」

「藤堂さんが会計の時に、小銭を落としたんです。僕が拾い集めて……その時、一枚だけ妙に重い一円玉があった気がします」

神崎の顔に、理解の色が浮かんだ。

「マイクロSDカード」

「え?」

「一円玉サイズのマイクロSDカードがあります。特殊な合金でコーティングすれば、見た目も重さも一円玉そっくりに偽装できる」

「そんなスパイ映画みたいな——」

「スパイ映画じゃなくて、スパイの現実です」

神崎は真剣な目で言った。

「藤堂さんは、わざと硬貨を落として、その中に本物のデータを紛れ込ませた。あなたに拾わせることで、自然に渡したんです」

悠真は愕然とした。

「その一円玉——今、どこにありますか?」

「……財布の中、だと思います」

悠真はポケットから財布を取り出した。

小銭入れを開ける。

一円玉が五枚。

神崎が一枚ずつ手に取り、重さを確かめる。

「……これ」

三枚目の一円玉を持ち上げた時、神崎の目が輝いた。

「明らかに重い。これがマイクロSDカードです」

「本当に——」

悠真は手を伸ばした。

その時——

自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませー」

反射的に声を出してしまう。

入ってきたのは——

「おお、まだいたか」

山田店長だった。

買い出しから戻ってきたらしい。両手にはスーパーの袋を提げている。

「おでんの具、補充しといてー。大根とちくわが売れてたから」

「は、はい……」

悠真は慌てて一円玉を財布にしまった。

「危なかった……」

「ええ。でも、これで謎が解けました」

神崎は小声で言った。

「本物のデータは、あなたの財布の中にあった。藤堂さんの作戦は、見事に成功していたんです」

悠真は財布を握りしめた。

この中に、国家機密が入っている。

一円玉に偽装された、小さなマイクロSDカード。

「これを——内調に届ければいいんですね」

「ええ。ただ——」

神崎の声が低くなった。

「敵も同じことに気づいている可能性があります。あなたを狙う理由が、まだあるということ」

「じゃあ、僕は——」

「しばらく、私と行動を共にしてもらいます」

神崎はまっすぐに悠真を見た。

「危険なことは承知しています。でも、一人でいるよりは安全です。私があなたを守ります」

守る。

この人が、自分を。

悠真は——何と言えばいいかわからなかった。

「……わかりました」

結局、そう答えるしかなかった。

「でも、一つだけ条件があります」

「何ですか?」

「僕のバイトのシフトは邪魔しないでください。生活かかってるんで」

神崎は一瞬、呆気に取られた顔をした。

そして——

笑った。

声を出して、本当に楽しそうに笑った。

「あはは……あなた、本当に面白い人ですね」

「面白くないです。真剣に言ってるんです」

「わかりました。バイトのシフトは尊重します」

神崎は笑いを収め、真剣な顔になった。

「でも、その代わり——私もここでバイトさせてください」

「……は?」

「あなたを守るには、近くにいるのが一番です。同じ職場なら、自然でしょう?」

「自然じゃないですよ! 内調のエージェントがコンビニでバイトって——」

「内緒ですよ?」

神崎は人差し指を唇に当てた。

悠真は深いため息をついた。

(どうしてこうなった)

だが、反論する気力も残っていなかった。

その夜。

シフトを終えた悠真と神崎は、店の裏口から出た。

「今日はどこに泊まるんですか」

悠真が聞くと、神崎は首を傾げた。

「そうですね。ホテルを取ろうと思っていましたが——」

「僕のアパートに来ますか」

自分で言っておいて、悠真は驚いた。

何を言っているんだ、俺は。

「いえ、今のなしで——」

「いいんですか? 助かります。監視対象と同じ場所にいた方が、警護もしやすいですし」

「監視対象って——」

「冗談です」

神崎はくすりと笑った。

「でも、本当に助かります。お言葉に甘えましょう」

悠真は後悔し始めていた。

何で余計なことを言ったんだ。

でも、まあ——彼女が近くにいた方が安全なのは確かだ。

「あ、でも——」

「はい?」

「部屋、めちゃくちゃ狭いですよ。六畳一間で」

「大丈夫です。もっと狭い場所で寝たことありますから」

「もっと狭い……どこですか」

「棺桶サイズの輸送コンテナ」

「……聞かなきゃよかった」

二人は夜の住宅街を歩いていった。

「桐生さん」

「はい?」

「今日は、ありがとうございました」

「僕が? 何を?」

「付き合ってくれて。普通なら、こんな状況、逃げ出しますよ」

悠真は肩をすくめた。

「逃げ出しても、たぶん追いかけてくるでしょ」

「……それは、そうですけど」

「だったら、一緒にいた方がマシかなって」

神崎は小さく笑った。

「前向きですね」

「そうでもしないと、やってられないですよ」

悠真のアパートが見えてきた。

「あれです。阿佐見ハイツ」

「味のある建物ですね」

「ボロいって言ってください」

「言いませんよ。私、こういう雰囲気、嫌いじゃないです」

「本当ですか?」

「ええ。なんだか——落ち着きます」

階段を上り、悠真の部屋に着いた。

「ここです」

「お邪魔します」

鍵を開け、中に入る。

六畳一間。ベッド、机、本棚、ミニ冷蔵庫。それだけの空間。

「ベッド、使ってください。僕は床で寝ますから」

「いえ、私が床で——」

「お客さんに床で寝させるわけにいかないです」

神崎は少し困った顔をしたが、結局「わかりました」と頷いた。

悠真はクローゼットから寝袋を取り出した。

「これで寝ます」

「……桐生さん」

「はい?」

「明日から、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

「色々と——巻き込んでしまって、すみません」

「いや、巻き込んだのは藤堂さんですから。神崎さんは悪くないですよ」

悠真は寝袋に入りながら言った。

「それに——」

「それに?」

「なんか、ちょっと……ワクワクしてるかもしれません」

自分で言って、悠真は恥ずかしくなった。

「……変ですよね」

「いいえ。わかります」

神崎の声は、穏やかだった。

「私も、最初はそうでしたから。怖かったけど——どこかで、ワクワクしていた」

「……」

「でも、忘れないでください。これは、命がかかっていることだと」

「わかってます」

「本当に?」

「……たぶん」

神崎は小さく笑った。

「正直ですね」

「嘘つくの、苦手なんです」

「知ってます。だから、信用できる」

電気が消えた。

暗闇の中、悠真は天井を見上げた。

明日から、どうなるんだろう。

スパイと同居。コンビニでのバイト。そして、国家機密を巡る追跡劇。

普通の大学院生には、到底想像もつかない日常。

だけど——

不思議と、眠れそうだった。

隣のベッドから、かすかな寝息が聞こえ始めている。

神崎は、もう眠ったらしい。

(スパイって、寝つき良いんだな……)

悠真も目を閉じた。

明日からの、新しい日々に備えて。


第二話「おでんとカーチェイス」 了

長く暗い魂のティータイム

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次回、第三話「恵方巻き作戦」に続く