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Easy Runningコンビニエント・スパイ 第三話「恵方巻き作戦」

あらすじ

内調エージェント・神崎美咲との奇妙な同居生活が始まった悠真。

コンビニバイトとスパイの護衛という、およそ両立しそうにない日常。だが、世間は二人の事情などお構いなしに回っていく。

そう——節分である。

恵方巻きの予約、店頭販売、廃棄ロスとの戦い。コンビニ店員にとって一年で最も過酷な季節がやってきた。

そんな繁忙期のさなか、店に現れた不審な客。彼らの狙いは恵方巻きではなく——悠真が持つマイクロSDカードだった。

「恵方巻き売りながらスパイと戦うって、どういう状況!?

巻き寿司と銃弾が飛び交う、節分の夜の攻防戦が始まる。


二月三日。節分。

日本中が豆をまき、恵方巻きを頬張るこの日は、コンビニ業界にとって特別な意味を持つ。

クリスマスケーキ、おせち、土用の丑の日と並ぶ、四大キャンペーンの一角。そして、アルバイト店員にとっては——地獄の一日である。

「桐生くん、恵方巻きの追加発注、まだ間に合うかな」

「店長、もう締め切り過ぎてます」

「えー、でも予約がさらに十本入って……」

「だから昨日のうちに多めに発注しておきましょうって言ったじゃないですか」

悠真は心の中でため息をついた。

ファミリーストップ中井坂上店。午前十時。

店内は節分モード一色だった。入口には「恵方巻き御予約承り中」の幟。レジ横には豆まきセットの特設コーナー。そして冷蔵ケースには、ずらりと並んだ恵方巻き。

海鮮恵方巻き、サラダ恵方巻き、焼肉恵方巻き、ハーフサイズ恵方巻き——種類だけでも十を超える。

「神崎さん、そっちの陳列終わりましたか」

「はい。完璧です」

振り返ると、神崎が恵方巻きの棚を整えているところだった。

あれから三日。

神崎美咲は、本当にファミリーストップでバイトを始めていた。

店長は大喜びだった。「こんなに優秀な人が来てくれるなんて」と、何度も言っている。実際、神崎の仕事ぶりは完璧だった。品出し、レジ、清掃——何をやらせてもミスがない。

(まあ、スパイの訓練に比べれば、コンビニの仕事なんて簡単なんだろうな……)

悠真はそう思いながらも、どこか釈然としないものを感じていた。

内閣情報調査室のエージェントが、恵方巻きを陳列している。

この光景、絶対におかしい。

「桐生さん」

神崎が近づいてきた。声を潜めて言う。

「今朝から、店の周辺をうろついている車があります」

「え?」

「黒いワンボックス。ナンバーは控えました。おそらく、監視です」

悠真の背筋に冷たいものが走った。

「じゃあ、やっぱり——」

「ええ。敵はまだ諦めていない」

三日前、悠真の財布から見つかったマイクロSDカード。一円玉に偽装された、本物の機密データ。

それは今、悠真のジーンズのポケットに入っている。

神崎は「すぐに内調の本部に届けたい」と言ったが、問題があった。本部への連絡手段が限られているのだ。藤堂が撃たれた事件以来、内調の通信網は敵に監視されている可能性がある。うかつに連絡を取れば、本部の位置を特定されかねない。

だから、神崎は「信頼できる連絡役」が接触してくるのを待っていた。

その間、悠真は——普通にバイトをしている。

「どうしますか」

「今は動かないでください。敵も、まだ確信がない状態だと思います。下手に動くと、こちらの存在を教えることになる」

「でも、このまま何もしないわけには——」

「大丈夫です」

神崎は微笑んだ。

「何かあれば、私が対処します。桐生さんは普段通りに」

「普段通りって言われても……」

「恵方巻き、売りましょう」

「いや、そうじゃなくて——」

「桐生くーん、レジお願いー」

店長の声がした。

お客さんが並び始めている。

悠真は諦めてレジに向かった。

(普段通りに、か……)

無理だろ、普通に考えて。

午後になると、客足が増えてきた。

節分当日。恵方巻きを買い求める客がひっきりなしに訪れる。

「いらっしゃいませー」

「恵方巻き、まだありますか」

「はい、こちらにございます」

「海鮮のやつ、三本ください」

「ありがとうございます」

悠真はレジを打ちながら、窓の外をちらちらと確認していた。

神崎が言っていた黒いワンボックス。

あった。

駐車場の隅に停まっている。中に人影が見えるが、顔までは確認できない。

(あれが敵……)

「あのー、お会計……」

「あ、すみません」

慌ててレジに集中する。

「千二百円になります」

「はい」

「ありがとうございましたー」

客が出ていく。

次の客が来る。

「いらっしゃいませー」

「恵方巻きある?」

「はい、こちらに——」

その繰り返し。

節分のコンビニは戦場だ。普段の三倍近い客が押し寄せ、レジは常に行列。合間を縫って商品の補充をしなければならない。

悠真は必死で働きながら、片隅で思った。

(スパイに追われながら恵方巻き売るって、どういう状況だよ……)

シュールすぎる。

「桐生さん」

神崎がそっと近づいてきた。

「三番レジ、私が入ります。少し休憩してください」

「いや、大丈夫です——」

「顔色が悪いですよ。ここ数日、あまり眠れていないでしょう」

図星だった。

神崎との同居生活が始まってから、悠真はほとんど眠れていない。六畳一間に男女二人。悠真は床で寝袋、神崎はベッド。物理的な距離は近いが、精神的には——

いや、そういう問題じゃない。

単純に、緊張しているのだ。いつ敵が襲ってくるかわからない。そんな状況で熟睡できるはずがない。

「十五分だけ、バックヤードで休んでください」

「でも——」

「命令です」

神崎の目が真剣だった。

「あなたが倒れたら、守る意味がありません」

「……わかりました」

悠真は観念して、バックヤードへ向かった。

バックヤードは、商品の在庫でごった返していた。

恵方巻きの段ボール、豆まきセットの箱、飲料の補充用ケース——狭い空間に所狭しと積み上げられている。

悠真は段ボールの山の隙間に座り込み、目を閉じた。

疲れている。

体力的にも、精神的にも。

三日前まで、自分は普通の大学院生だった。研究とバイトに明け暮れる、平凡な日常。

それが今では——

国家機密を持ち歩き、スパイに追われ、別のスパイと同居している。

(人生、何があるかわからないな……)

そんなことを考えていると、ふと——声が聞こえた。

店内からではない。

裏口の方だ。

悠真は目を開けた。

裏口のドアの向こうから、男の声がする。低い声で、何かを話している。

「——確認した。中にいる」

「ターゲットは?」

「男の方だ。今、バックヤードにいる」

悠真は息を呑んだ。

(まずい——)

敵だ。

もう、店の周辺にまで来ている。

「どうする。突入するか」

「待て。まだ昼間だ。人目がある」

「だが、いつまでも待っていられない。上からの命令だ。今日中にデータを回収しろと」

「……わかった。閉店後に動く。それまで見張りを続けろ」

足音が遠ざかっていく。

悠真は息を止めたまま、動けなかった。

閉店後。

今日の閉店は——午後十一時。

あと九時間。

それまでに、何とかしなければならない。

悠真は立ち上がり、そっとバックヤードを出た。

「神崎さん」

悠真は神崎を呼び出し、倉庫の隅で事情を説明した。

「——閉店後に動く、と言っていました」

「なるほど」

神崎の表情は冷静だった。

「人目を気にしているということは、大規模な襲撃ではないでしょう。おそらく少人数で、隠密に行動するつもり」

「どうしますか」

「いくつか選択肢があります」

神崎は指を立てた。

「一つ目。閉店前に店を離れる。敵の裏をかいて逃げる」

「それがいいと思います」

「ただし、問題があります。彼らは店の周辺を監視している。不自然な動きをすれば、すぐに気づかれます」

「じゃあ——」

「二つ目。このまま閉店まで待ち、迎え撃つ」

「迎え撃つって——戦うってことですか」

「ええ」

神崎はあっさりと言った。

「敵の数が少ないなら、対処できます」

「対処って——神崎さん一人でですか」

「心配いりません。この程度の相手なら」

(この程度って……)

悠真は戦慄した。

この人、本気で言っている。

「あ、あの、もっと穏便な方法は——」

「三つ目」

神崎は三本目の指を立てた。

「応援を呼ぶ」

「応援?」

「実は、今日の夕方——信頼できる連絡役が、この店に来る予定なんです」

「え、そうなんですか?」

「ええ。今朝、暗号化されたメッセージを受け取りました。午後六時に、連絡役がこの店を訪れると」

「なんでもっと早く言ってくれないんですか!」

「確定情報ではなかったので」

神崎は涼しい顔で言った。

「スパイの世界では、確定するまで情報を共有しないのが基本です」

「いや、僕スパイじゃないんですけど」

「そうでしたね」

軽い。

扱いが軽い。

「とにかく」

神崎は時計を見た。

「午後六時まであと四時間。それまで持ちこたえれば、状況は好転します」

「本当ですか?」

「ええ。連絡役が来れば、データを安全に本部へ届けるルートが確保できます。そうすれば、あなたを狙う理由もなくなる」

「……わかりました」

悠真は深呼吸した。

あと四時間。

四時間、普通にバイトをすればいい。

「じゃあ、仕事に戻りましょう」

「ええ。あ、桐生さん」

「はい?」

「恵方巻き、補充お願いします。海鮮が残り三本です」

「……はい」

結局、恵方巻きを売るのか。

悠真は自分の状況に、改めて呆れた。

午後五時。

日が傾き始め、店内は夕方の買い物客で賑わっていた。

恵方巻きの売れ行きは好調だった。予約分はほぼ完売。店頭販売分も、残りわずかになっている。

「今年は廃棄少なそうだな」

山田店長が嬉しそうに言った。

「去年は大量に余っちゃって大変だったからねえ」

「そうですね」

悠真は相槌を打ちながら、時計を確認した。

午後六時まで、あと一時間。

(あと少し——)

その時、自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませー」

入ってきたのは、一人の女性だった。

三十代前半くらいだろうか。ベージュのトレンチコートに、黒いパンプス。髪はきれいにまとめられ、大きな黒縁眼鏡をかけている。

一見すると、どこにでもいるOL風。

だが——

女性の目が、店内を素早くスキャンした。監視カメラの位置、出入口、客と店員の数。その動きは、明らかに一般人のものではない。

悠真の横を、神崎がすっと通り過ぎた。

「いらっしゃいませ。恵方巻きはいかがですか」

神崎が女性に声をかける。

女性は微笑んだ。

「ええ、いただくわ。今年の恵方は——」

「東北東ですね」

「さすが、よくご存知で」

「コンビニ店員ですから」

二人の間で、何かが通じ合ったようだった。

女性は恵方巻きを一本手に取り、レジへ向かった。

悠真がレジを打つ。

「四百八十円になります」

「はい」

女性が財布を開く。

その時——女性が、小さな紙片をカウンターの上に滑らせた。

「お釣りはいりませんわ」

「あ、ありがとうございます」

女性は恵方巻きを受け取り、店を出ていった。

悠真は紙片を手に取った。

小さなメモ。走り書きで、こう書かれていた。

『午後八時。店の裏手。——月は東に』

合言葉だ。

「神崎さん」

「見ました」

神崎が横に来た。

「彼女が連絡役です。午後八時に、データの受け渡しを行います」

「でも、敵は閉店後に動くって——」

「ええ。だから、それより前に済ませます」

神崎は時計を見た。

「あと三時間。それまでは、普通に仕事を続けましょう」

「……普通に」

「ええ。恵方巻き、売りましょう」

また恵方巻きか。

悠真は小さくため息をついた。

午後七時。

店内の客足は落ち着いてきた。

恵方巻きはほぼ完売。残っているのは数本だけ。山田店長は「奇跡だ」と喜んでいた。

「神崎さんが来てから、店の売上が上がってる気がするんだよねえ」

「そうですか?」

「うん。なんていうか、店の雰囲気が良くなったっていうか」

(いや、店の雰囲気は確実におかしくなってると思いますけど……)

悠真は心の中でツッコんだが、口には出さなかった。

「じゃあ、俺はちょっと銀行行ってくるから。三十分くらいで戻るね」

「はい」

山田店長が出ていく。

店内には、悠真と神崎だけが残った。

「桐生さん」

神崎が近づいてきた。

「そろそろ準備をしましょう」

「準備って——」

「午後八時に、裏手で受け渡し。その前に、いくつか確認しておきたいことがあります」

神崎は店の裏口へ向かった。悠真も後を追う。

バックヤードを抜け、勝手口のドアを開ける。

外は暗くなり始めていた。二月の日没は早い。午後五時半には太陽が沈み、今はもう夜の気配が濃い。

「ここで受け渡しを行います」

神崎は周囲を見回した。

「裏手は住宅街に面しています。逃げ道は——あの路地と、向こうの駐車場。何かあったら、駐車場の方へ逃げてください」

「何かあったらって——」

「念のためです」

神崎は真剣な目で言った。

「連絡役は信頼できる人物です。でも、敵がこの動きに気づいている可能性もある。油断はできません」

「……わかりました」

悠真はポケットに手を入れた。

マイクロSDカード。一円玉に偽装された、小さなデータ。

この三日間、肌身離さず持ち歩いていた。

「あと四十五分」

神崎は時計を見た。

「それまでは——」

「わかってます。恵方巻きでしょ」

「話が早いですね」

神崎は微笑んだ。

二人は店内に戻った。

午後七時五十分。

悠真は緊張しながら、時計の針が進むのを見守っていた。

店内には数人の客がいる。飲み物を選んでいるサラリーマン、雑誌を立ち読みしている若者。いつもの光景。

だが、悠真の心臓は早鐘を打っていた。

あと十分。

あと十分で、すべてが終わる——かもしれない。

「桐生さん」

神崎が耳元で囁いた。

「そろそろ裏へ。私が店番をしています」

「わかりました」

悠真はレジを離れ、バックヤードへ向かった。

勝手口のドアの前で立ち止まる。

深呼吸。

ポケットの中のマイクロSDカードを確認する。

午後七時五十八分。

悠真はドアを開けた。

夜の冷気が頬を刺す。二月の夜は寒い。

裏手には誰もいなかった。街灯の光が、アスファルトをぼんやりと照らしている。

午後七時五十九分。

遠くで車のエンジン音がする。

そして——

「桐生悠真さんですね」

声がした。

振り返ると、あのトレンチコートの女性が立っていた。さっき店に来た、連絡役の女性。

「月は東に日は西に」

悠真は合言葉を口にした。

女性は微笑んだ。

「蕪村の句か。菜の花が見える季節も、もうすぐですわね」

正解だ。

「データを」

女性が手を差し出した。

悠真はポケットからマイクロSDカードを取り出した。

一円玉に見える、小さな金属片。これが——

「待て」

声がした。

別の方向から。

悠真は振り返った。

路地の暗がりから、男たちが現れた。

三人。

黒いコートに身を包んだ、屈強な体格の男たち。

「やはりいたか。データを渡してもらおう」

先頭の男が言った。

悠真の手が震えた。

「あなたたちは——」

「余計なことを聞くな。データを渡せば、命は助けてやる」

トレンチコートの女性が、悠真の前に出た。

「彼に手を出すな」

「ほう。内調のエージェントか。一人で三人を相手にするつもりか」

「一人ではありませんわ」

女性が微笑んだ。

次の瞬間——

「いらっしゃいませー」

場違いな声が響いた。

勝手口のドアが開き、神崎が姿を現した。

コンビニの制服のまま。エプロンを着け、三角巾を被った状態。

だが、その手には——拳銃が握られていた。

「恵方巻き、いかがですか」

神崎は涼しい顔で言った。

「今なら、お得ですよ」

男たちの顔が引きつった。

「な——二人だと?」

「ええ」

神崎が銃を構える。

「二対三。悪くないオッズでしょう?」

一瞬の静寂。

そして——

「やれ!」

先頭の男が叫んだ。

同時に、三人が動いた。懐から銃を取り出す。

だが、神崎の方が速かった。

銃声が響く。一発。二発。

二人の男が、銃を持った手を押さえてうずくまった。

「ぐあっ……!」

「腕を狙いました」

神崎は冷静に言った。

「次は足です。それでも向かってくるなら——」

「くそっ……!」

残った一人の男が、悠真に向かって突進してきた。

「桐生さん、伏せて!」

神崎の声。

悠真は本能的に身を低くした。

頭上を弾丸が通過する。

男が悠真に掴みかかる。だが——

「失礼」

トレンチコートの女性が、男の腕を取った。

一瞬の動き。関節を極め、投げ飛ばす。

男は地面に叩きつけられ、動かなくなった。

「……終わりましたわね」

女性は髪を整えながら言った。

悠真は呆然と、その光景を見ていた。

三対二。

所要時間、約十秒。

「桐生さん、大丈夫ですか」

神崎が駆け寄ってきた。

「あ……はい……」

「怪我はありませんか」

「ないです……たぶん……」

悠真は自分の体を確認した。血は出ていない。痛みもない。

「よかった」

神崎はほっとしたように微笑んだ。

「データは?」

「あ——」

悠真は手の中を見た。

マイクロSDカードは、まだ握られていた。

「はい……無事です」

「では、改めて」

トレンチコートの女性が近づいてきた。

「受け取りますわ」

悠真は女性にマイクロSDカードを渡した。

女性はそれを受け取り、内ポケットに仕舞った。

「確かに。これで、私の任務は完了です」

「あの——」

悠真は声をかけた。

「これで……終わりですか?」

「ええ」

女性は微笑んだ。

「データは無事に内調本部へ届けられます。あなたを狙う理由は、もうありません」

「じゃあ、僕は——」

「普通の生活に戻れますわ」

普通の生活。

その言葉が、妙に遠く感じられた。

「ただ——」

女性は神崎を見た。

「神崎さん。あなたは引き続き、この件の後処理を担当してもらいます」

「了解しました」

「この青年の警護も、もうしばらく続けてください。念のためです」

「はい」

女性は悠真に向き直った。

「桐生悠真さん。今回の件、ご協力感謝します」

「あ、いえ……僕は何も……」

「謙遜なさらないで。あなたがデータを守ってくれたから、多くの命が救われました」

女性は小さく頭を下げた。

「では、失礼します。——ああ、恵方巻き、美味しかったですわ」

女性は踵を返し、夜の闇の中へ消えていった。

後には、悠真と神崎、そして倒れた三人の男だけが残された。

「……終わった、んですか」

「ええ」

神崎は銃をしまいながら言った。

「とりあえずは」

「とりあえず?」

「後処理があります。この三人の身柄を確保して、事情を聴取しないと」

神崎は携帯電話を取り出した。

「私は連絡を取ります。桐生さんは——」

「わかってます」

悠真は立ち上がった。

「店番でしょ」

「話が早いですね」

神崎は微笑んだ。

悠真は勝手口から店内に戻った。

午後九時。

騒ぎは、あっという間に収束した。

神崎が呼んだ「回収班」なる人々が現れ、倒れていた三人の男を連れ去っていった。近所の住人に気づかれた様子もない。手際が良すぎて、逆に怖い。

山田店長が戻ってきたのは、すべてが終わった後だった。

「ごめんね、遅くなっちゃって。銀行が混んでてさあ」

「いえ、大丈夫です」

「何か変わったことあった?」

「いえ、特には」

悠真は平然と答えた。

嘘をつくのは苦手だったはずなのに——いつの間にか、慣れてきている自分がいた。

(これもスパイの才能ってやつなのかな……)

嬉しくない才能だ。

「恵方巻き、完売したよ」

「おお、すごいね! 去年は三十本も余ったのに」

「神崎さんが頑張ってくれたんで」

「神崎さん、本当に優秀だよねえ。どこかで修行でもしてきたのかな」

(修行っていうか、訓練っていうか……)

悠真は苦笑した。

閉店作業を終え、店を出たのは午後十一時過ぎだった。

「お疲れ様でした」

「お疲れ様です」

悠真と神崎は、並んで夜道を歩いた。

「今日は、大変でしたね」

神崎が言った。

「ええ、まあ……」

「でも、これでひと段落です。データは無事に届けられました」

「……そうですね」

悠真は空を見上げた。

冬の夜空に、星が瞬いている。

「神崎さん」

「はい?」

「これで、僕の役目は終わりですか?」

「そうですね」

神崎は少し考えてから答えた。

「データに関しては、もうあなたを狙う理由はありません。ただ——」

「ただ?」

「念のため、もうしばらく警護は続けさせてください。敵が諦めたかどうか、確認する必要がありますから」

「つまり——」

「同居生活は、もう少し続きます」

悠真は天を仰いだ。

「……そうですか」

「迷惑ですか?」

「いえ、そういうわけじゃ——」

「よかった」

神崎は微笑んだ。

「私も、もう少しコンビニバイトを続けたいと思っていたんです」

「え?」

「楽しいんですよ、意外と。お客さんに『ありがとう』って言われると、嬉しくて」

「……」

悠真は言葉を失った。

内調のエージェントが、コンビニバイトを「楽しい」と言っている。

世界は広い。

「さて、今日は東北東を向いて恵方巻きを食べないといけませんね」

「あ——」

そういえば、まだ食べていなかった。

「買いましたよ、私たちの分」

神崎がコンビニの袋を掲げた。

「帰ったら、一緒に食べましょう」

「……はい」

二人は夜道を歩き続けた。

悠真のアパート、阿佐見ハイツへ向かって。

(普通の生活、か——)

もう、何が普通なのかわからなくなっていた。

でも、悪くない気がした。

この奇妙な日々が——


第三話「恵方巻き作戦」 了

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次回、第四話「本部はバックヤード」に続く