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Easy Runningコンビニエント・スパイ 第五話「レジ打ちスパイの卒業」

あらすじ

神崎美咲、拘束——。

機密漏洩の濡れ衣を着せられた彼女を救うため、悠真は藤堂の作戦に参加することを決意する。

ターゲットは、内調総務部次長・水野誠司。彼が外部と接触する現場を押さえ、真犯人であることを証明しなければならない。

そして作戦の舞台は——ファミリーストップ中井坂上店。

「なんで最後までコンビニなんですか!?

おでんの湯気が立ち上るバックヤードで、すべての決着がつく。

平凡な大学院生が巻き込まれた、ちょっとおかしなスパイ・コメディ——ここに完結。


藤堂の作戦は、シンプルだった。

「水野を誘い出し、外部との接触現場を押さえる」

言葉にすれば簡単だが、実行は難しい。

「どうやって誘い出すんですか」

悠真の質問に、藤堂は答えた。

「餌を撒く」

「餌?」

「水野が欲しがっているもの——つまり、君だ」

悠真は目を丸くした。

「僕?」

「ああ。君は、あのマイクロSDカードを運んだ人物だ。水野はまだ、君のことを警戒しているはずだ」

「でも、データはもう内調に届けたんじゃ——」

「水野はそれを知らない。少なくとも、確信は持っていない」

藤堂は続けた。

「君がまだデータを持っている——そういう噂を流す。水野は確認のために動くはずだ」

「それで、僕に接触してきたところを——」

「押さえる。そうだ」

悠真は考え込んだ。

つまり、自分が囮になるということだ。

危険な役回り。

「……やります」

だが、悠真は頷いた。

「神崎さんを助けるためなら」

「感謝する」

藤堂は微かに笑った。

「だが、危険は最小限に抑える。君を一人にはしない」

「どういうことですか」

「作戦の舞台は、君のバイト先だ」

「え?」

悠真は聞き返した。

「ファミリーストップ中井坂上店。あそこを使う」

「なんでコンビニなんですか!」

「理由はいくつかある」

藤堂は指を立てた。

「一つ、君のホームグラウンドだ。地形を熟知している。二つ、監視カメラがある。証拠を記録できる。三つ——」

「三つ?」

「真木くんが設置した通信設備がある。あれを使えば、リアルタイムで状況を把握できる」

「……」

悠真は黙り込んだ。

確かに、理屈は通っている。

でも——

「最後までコンビニって、どういう運命ですか……」

「運命というより、必然だな」

藤堂は真顔で言った。

「すべては、あの夜のコンビニから始まった。だから、決着もコンビニでつける。美しい対称性だ」

「美しくないです。全然美しくないです」

悠真のツッコミは、スルーされた。

作戦決行日は、三日後に設定された。

その間、悠真は普通にバイトを続けた。

——ただし、「普通」の定義が、だいぶ変わっていたが。

「桐生さん、こちら藤堂です。聞こえますか」

「はい、聞こえます」

悠真は耳につけた小型イヤホンに応答しながら、レジを打っていた。

「いらっしゃいませー。袋はご利用ですか」

「お願いします」

「かしこまりました」

客の対応をしながら、イヤホンからの指示を聞く。この二重生活にも、だいぶ慣れてきた。

「監視カメラの映像、クリアです。問題ありません」

バックヤードでは、真木がモニターを監視している。

「水野の動向は?」

「今のところ、変化なし。噂は届いているはずですが……」

藤堂が流した噂——「桐生悠真がまだデータのコピーを持っている」という情報。

それが水野に届けば、何らかの動きがあるはずだった。

「焦る必要はない。獲物が罠にかかるのを、じっくり待とう」

藤堂の声は落ち着いていた。

悠真はレジを打ちながら、心の中で思った。

(スパイって、意外と地味な仕事が多いんだな……)

派手なアクションばかりじゃない。むしろ、待機と監視の時間の方が長い。

「お弁当温めますか」

「お願いします」

電子レンジのボタンを押す。

待機。監視。そしてレジ打ち。

不思議な日常が続いていた。

作戦決行日の前夜。

悠真は自分のアパートで、一人で過ごしていた。

神崎がいない部屋は、妙に広く感じる。

たった数週間の同居だったのに——いないと落ち着かない。

「……神崎さん、大丈夫かな」

呟いてみても、答える人はいない。

スマートフォンが鳴った。

真木からのメッセージだった。

『明日の作戦、最終確認します。大丈夫ですか?』

悠真は返信を打った。

『大丈夫です。やれることはやります』

『ありがとうございます。桐生さんがいてくれて、本当に助かります』

『僕は何もしてないですよ。ただ、レジ打ってるだけで』

『それが大事なんです。普通を装って、敵を油断させる。桐生さんにしかできない役割です』

悠真は苦笑した。

普通を装う。

それが自分の役割か。

『あと、一つ伝えておきます』

真木からのメッセージが続いた。

『神崎先輩、拘束される前に伝言を残していました』

『伝言?』

『「桐生さんによろしく」と』

悠真は画面を見つめた。

よろしく——それだけ?

いや、神崎らしいと言えば神崎らしい。

多くを語らない。でも、大事なことはちゃんと伝える。

『わかりました。明日、頑張ります』

『はい。一緒に頑張りましょう』

悠真はスマートフォンを置いた。

窓の外を見る。

夜空に、星が瞬いていた。

「よろしく、か……」

明日——すべてが決まる。

作戦決行日。

午後八時。

ファミリーストップ中井坂上店。

悠真はいつも通り、レジに立っていた。

だが、今夜は「いつも通り」ではない。

耳にはイヤホン。ポケットには小型の発信機。バックヤードには真木と藤堂が待機している。

「桐生くん、聞こえるか」

「はい」

「水野が動いた。こちらに向かっている」

悠真の心臓が跳ねた。

「あと十五分ほどで到着する。予定通りだ」

「わかりました」

悠真は深呼吸した。

落ち着け。普通にしろ。いつも通りにしろ。

「いらっしゃいませー」

客が入ってくる。普通の客だ。対応する。レジを打つ。

「ありがとうございましたー」

客が出ていく。

また静寂。

時計を見る。午後八時十分。

「桐生くん」

藤堂の声。

「水野が駐車場に入った。黒いセダン。一人だ」

「はい」

「これから店内に入ってくる。自然に対応しろ。挑発する必要はない。向こうから接触してくるのを待て」

「わかりました」

自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませー」

入ってきたのは——

四十代半ばの男。銀縁の眼鏡。きっちりとしたスーツ。

水野誠司だった。

悠真は男の顔を覚えていなかったが、真木から見せられた写真と一致している。間違いない。

水野は店内を見回した。

そして、まっすぐレジへ向かってきた。

「君が桐生悠真くんかな」

いきなり名前を呼ばれ、悠真は驚いたふりをした。

「え? あ、はい……」

「内調の水野だ。少し話がしたい」

「話、ですか」

「ああ。君が持っているもの——について」

水野の目が鋭く光った。

「外で話そう。五分でいい」

悠真は迷うふりをした。

「でも、仕事中なんで——」

「大事な話だ。君のためでもある」

水野の声には、有無を言わさぬ圧がある。

「……わかりました」

悠真は店長に声をかけた。

「すみません、ちょっとだけ外出ていいですか。知り合いが来たんで」

「ああ、いいよ。五分くらいならね」

「ありがとうございます」

悠真は水野と一緒に、店の外に出た。

駐車場の隅。

街灯の光が届かない、薄暗い場所。

水野は悠真を連れて、そこに立った。

「単刀直入に聞く」

水野は悠真を見下ろした。

「藤堂から受け取ったデータ——まだ持っているな?」

「データ……ですか」

「とぼけるな。マイクロSDカードだ。一円玉に偽装されていた」

悠真は黙り込んだ。

水野の目が細くなった。

「君が持っているという噂を聞いた。内調に届ける前に、コピーを取ったとも」

「そんなこと——」

「嘘をつくな」

水野の声が鋭くなった。

「私を甘く見るな、小僧。内調で二十年やってきたんだ。嘘を見抜くのは得意なんだよ」

悠真は息を呑んだ。

この男、本気だ。

「……コピーがあったとして、どうするんですか」

悠真は慎重に言葉を選んだ。

「それを、こちらに渡してもらう」

「渡したら?」

「君の安全は保障する。神崎の釈放にも協力しよう」

「神崎さんを——?」

「ああ。彼女の拘束は、私の一存でどうにでもなる。データさえ渡してくれれば、すべて丸く収まる」

悠真は水野を見つめた。

この男が——裏切り者。

神崎を陥れた張本人。

「……わかりました」

悠真は答えた。

「データ、渡します」

「賢明な判断だ」

水野は満足げに頷いた。

「どこにある」

「バックヤードに——」

その時だった。

「それ以上話す必要はないぞ、水野」

声がした。

振り返ると——

藤堂誠一郎が立っていた。

その隣には、真木雄一郎。

「藤堂……! なぜここに——」

水野の顔が歪んだ。

「全部聞かせてもらった」

藤堂は一歩前に出た。

「『神崎の拘束は私の一存でどうにでもなる』——これは、君が神崎を陥れた証拠だ」

「な——」

「録音もしてある。桐生くんが身につけていた発信機で、すべて本部に送信済みだ」

水野の顔から血の気が引いた。

「馬鹿な——罠だと?」

「ああ。君を誘い出すための罠だ」

藤堂は冷たく言った。

「二十年のキャリアが聞いて呆れる。こんな単純な罠に引っかかるとはな」

水野の目が、悠真を見た。

憎悪に満ちた目。

「貴様——!」

水野が悠真に掴みかかろうとした。

だが——

「させない」

声がした。

同時に、水野の腕が捻り上げられた。

「ぐあっ……!」

水野が悲鳴を上げる。

その腕を極めているのは——

「神崎さん!」

悠真は叫んだ。

神崎美咲が、そこに立っていた。

「拘束されていたんじゃ——」

「解除されました。藤堂さんが手配してくれて」

神崎は涼しい顔で言った。

「間に合ってよかった」

「神崎……! 貴様……!」

水野がもがく。

だが、神崎の関節技は完璧だった。動けば動くほど、痛みが増す。

「大人しくしてください、水野次長」

神崎は静かに言った。

「あなたの罪は、すべて明らかになりました。外部勢力との内通、機密漏洩、そして——私への冤罪」

「くそ……くそっ……!」

水野は地面に這いつくばった。

遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。

「保安部が来ます」

真木が言った。

「あとは任せましょう」

藤堂が頷いた。

悠真は、その光景をぼんやりと見ていた。

終わった——のか。

本当に。

それから一時間。

水野は保安部に連行され、悠真たちは事情聴取を受けた。

といっても、悠真の役割は「囮になっただけ」なので、聴取はすぐに終わった。

「ご協力感謝します、桐生さん」

保安部の担当者は、そう言って去っていった。

深夜十一時。

ファミリーストップ中井坂上店は、とっくに閉店時間を過ぎていた。

山田店長は「何があったの?」と目を丸くしていたが、藤堂が「警察の協力をお願いしていた」と説明すると、「そうなのかー」と納得していた。

(店長、ちょっと騙されやすすぎない?)

悠真は心の中でツッコんだが、口には出さなかった。

店の前。

悠真は神崎と並んで立っていた。

「お疲れ様でした、桐生さん」

「いえ、僕は何も——」

「そんなことありません」

神崎は微笑んだ。

「あなたがいなければ、この作戦は成功しませんでした。囮役を引き受けてくれたこと、本当に感謝しています」

「……」

悠真は照れくさくなって、視線を逸らした。

「それより、神崎さんこそ大丈夫ですか。拘束されてたんでしょう」

「ええ、まあ。でも、扱いは丁寧でしたよ。さすがに同僚ですから」

「そうですか……」

沈黙が流れた。

悠真は、聞きたいことがあった。

「あの——神崎さん」

「はい?」

「これで、全部終わり——ですよね」

神崎は少し考えてから答えた。

「ええ。水野は逮捕されました。あなたを狙う人間はもういません。これで、あなたは普通の生活に戻れます」

「普通の生活……」

悠真は呟いた。

数週間前まで、自分が送っていた生活。研究とバイトに明け暮れる、平凡な日常。

「神崎さんは——」

「私は、明日から本部勤務に戻ります」

神崎はあっさりと言った。

「バックヤードの機材も撤去されます。このお店は、元の普通のコンビニに戻りますよ」

「そうですか……」

悠真は、なぜか寂しさを感じた。

おかしな話だ。

あれほど「巻き込まれたくない」と思っていたのに。

「あの——」

「はい?」

「また、会えますか」

言ってしまってから、悠真は後悔した。

何を言っているんだ、自分は。

相手はスパイだ。内閣情報調査室のエージェント。住む世界が違う。

「……ふふ」

神崎が笑った。

「何がおかしいんですか」

「いえ、嬉しくて」

神崎は悠真を見た。

その目は、優しかった。

「また会えますよ。私、このお店のファンになりましたから」

「は?」

「おでん、美味しいですよね。特に大根」

「いや、そういう意味じゃなくて——」

「冗談です」

神崎は笑いを収めた。

「連絡先、交換しましょうか」

「え?」

「プライベートの連絡先。内調の通信は使えませんけど、個人的なやり取りなら問題ありません」

「いいんですか?」

「ええ。だって——」

神崎は少し頬を赤らめた。

「友達でしょう?」

友達。

スパイと一般人が、友達。

おかしな関係だ。

でも——

「はい」

悠真は頷いた。

「友達です」

二人はスマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。

翌日。

悠真は普通に大学へ行き、普通に研究をした。

研究室で、友人の佐伯に声をかけられた。

「おう、桐生。最近どうしたんだ? なんか、雰囲気変わったな」

「そう?」

「ああ。なんていうか——大人っぽくなったっていうか」

「気のせいだよ」

悠真は笑って誤魔化した。

まさか、「スパイと一緒に国家機密を守っていた」とは言えない。

「そういえば、バイト先に美人が入ったって噂、本当か?」

「ああ、うん。でも、もう辞めちゃったよ」

「マジか。残念だな」

「まあね」

悠真は窓の外を見た。

神崎は今頃、内調の本部で働いているのだろう。

自分とは違う世界で、自分とは違う仕事をしている。

でも——繋がりは、ある。

スマートフォンの連絡先に、「神崎美咲」という名前が追加されている。

それだけで、なんだか心強い気がした。

それから一週間後。

悠真はいつも通り、ファミリーストップで深夜シフトに入っていた。

午前二時。

店内には悠真一人。蛍光灯の白い光。有線放送の音楽。冷蔵庫のコンプレッサーの音。

すべてが、いつも通りだった。

「……平和だな」

悠真は呟いた。

バックヤードの機材は撤去された。通信設備も、モニターも、何もない。ただの倉庫に戻っている。

神崎もいない。真木もいない。藤堂もいない。

普通の、深夜のコンビニ。

悠真がずっと過ごしてきた、日常の風景。

(これでいいんだ)

自分に言い聞かせる。

自分は一般人だ。スパイじゃない。普通の大学院生で、普通のコンビニバイト。

それが、自分の居場所。

自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませー」

反射的に声を出す。

入ってきたのは——

「こんばんは、桐生さん」

神崎美咲だった。

スーツ姿ではなく、カジュアルな私服。髪は下ろしていて、雰囲気が少し違う。

「神崎さん!? なんで——」

「近くを通りかかったので」

神崎は微笑んだ。

「おでん、食べていいですか」

「あ、はい、どうぞ……」

神崎はおでんコーナーに向かい、大根とちくわを選んだ。

「あと、肉まんを一つ」

「かしこまりました」

悠真はおでんと肉まんを用意した。

「五百二十円になります」

「はい」

神崎は支払いを済ませ、イートインスペースに座った。

悠真はレジから、その様子を見ていた。

神崎は美味しそうにおでんを食べている。

なんだか——不思議な光景だった。

数週間前まで、この人と一緒に銃撃戦を潜り抜けていたなんて。

「桐生さん」

神崎が声をかけてきた。

「はい?」

「休憩、取れますか?」

「あ、ええと——」

悠真は時計を見た。午前二時十五分。

「十分くらいなら……」

「じゃあ、一緒に食べましょう」

悠真は少し迷ったが、結局おでんを一つ取って、神崎の向かいに座った。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

二人は静かにおでんを食べた。

「……美味しいですね」

「でしょう? ここのおでん、出汁がいいんですよ」

「知ってます。私、ここでバイトしてましたから」

「ああ、そうでした」

二人は顔を見合わせて、笑った。

「神崎さん」

「はい?」

「また——来てくれますか」

神崎は微笑んだ。

「ええ。おでんが食べたくなったら、来ます」

「それだけですか」

「……それだけじゃ、ないかもしれません」

神崎は少し頬を赤らめた。

悠真も、なんだか照れくさくなった。

「あの——」

「はい?」

「僕、もし何かあったら——また手伝いますよ。スパイの仕事」

「え?」

「いや、役に立つかわからないですけど。レジ打ちながらとか、おでんの仕込みしながらとか——そういう変なことしかできないですけど」

神崎は目を丸くした。

そして——

笑った。

本当に嬉しそうに。

「ありがとうございます」

「いえ——」

「でも、危険な仕事には巻き込みたくないです」

「はい」

「だから——」

神崎は悠真の目を見た。

「危険じゃない時に、また会いましょう。普通に。友達として」

「……はい」

悠真は頷いた。

普通に。友達として。

それが——一番いいのかもしれない。

自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませー」

悠真は立ち上がり、レジに向かった。

客の対応をしながら、ちらりとイートインスペースを見る。

神崎は、まだおでんを食べていた。

その姿が、なんだか——とても自然に見えた。

スパイも、コンビニでおでんを食べる。

当たり前のことだけど——なんだか、嬉しかった。

午前三時。

神崎は帰っていった。

「また来ますね」

「はい。待ってます」

手を振って見送る。

神崎の姿が夜の闇に消えていく。

悠真は店内に戻り、レジの前に立った。

深夜のコンビニ。

蛍光灯の白い光。有線放送の音楽。冷蔵庫のコンプレッサーの音。

何も変わっていない。

でも——

何かが変わった。

自分の中で、確実に。

悠真はスマートフォンを取り出し、連絡先を開いた。

「神崎美咲」

その名前を見て、小さく笑った。

数週間前、自分は普通の大学院生だった。

普通にバイトをして、普通に研究をして、普通に生きていた。

そこに——スパイがやってきた。

USBメモリを押し付けられ、銃撃戦に巻き込まれ、カーチェイスをして、恵方巻きを売りながら戦って、バックヤードを秘密基地にされて、最後は囮になった。

めちゃくちゃな数週間だった。

でも——

「悪くなかったな」

悠真は呟いた。

自分は一般人だ。これからも、普通に生きていく。

研究をして、バイトをして、就職して、働いて。

でも、時々——

スパイの友達が、おでんを食べに来てくれる。

それだけで、日常が少し特別になる。

「さて」

悠真は伸びをした。

「仕事しよう」

おでんの出汁を足す。商品の前出しをする。床を掃除する。

いつも通りの、深夜シフト。

でも、なんだか——楽しかった。

自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませー」

悠真は笑顔で、客を迎えた。

夜はまだ長い。

でも、朝は必ず来る。

そして、また新しい一日が始まる。

スパイとコンビニ店員の、ちょっとおかしな物語。

これにて——一旦、幕を閉じる。


エピローグ

三月。

桜の蕾が膨らみ始めた頃。

悠真は無事に修士課程を修了し、四月からの就職を控えていた。

コンビニのバイトは続けている。就職後も、週末だけシフトに入る予定だ。

「桐生くん、卒業おめでとう」

山田店長が言った。

「ありがとうございます」

「寂しくなるなあ。でも、週末は来てくれるんだよね」

「はい。ここ、居心地いいんで」

「そう言ってもらえると嬉しいよ」

店長は笑顔で去っていった。

悠真はレジに立ちながら、窓の外を見た。

春の陽気。穏やかな午後。

平和だ。

スマートフォンが震えた。

メッセージ。神崎からだった。

『卒業おめでとうございます。今夜、お祝いしませんか?』

悠真は微笑んだ。

『いいですよ。何時に来ますか?』

『八時頃に。おでん、残しておいてください』

『了解です。大根とちくわでいいですか?』

『はい。楽しみにしてます』

悠真はスマートフォンをポケットにしまった。

今夜、神崎が来る。

たぶん、他愛のない話をして、おでんを食べて、それだけだ。

でも、それがいい。

普通の友達として、普通に会う。

それが——今の自分たちには、ちょうどいい。

自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませー」

悠真は笑顔で、客を迎えた。

コンビニエント・スパイ。

便利なスパイ——なんて、自分のことじゃない。

でも、便利なコンビニ店員くらいには、なれたかもしれない。

スパイの友達がいる、ちょっと変わったコンビニ店員。

それが——桐生悠真の、新しい肩書きだ。

窓の外で、桜の蕾が風に揺れていた。

もうすぐ、春が来る。


第五話「レジ打ちスパイの卒業」 了

サウスバウンド

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奥田 英朗

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コンビニエント・スパイ 完